それはとうに捨てました

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それはとうに捨てました

胸の奥にしまったとか、そんな綺麗なものじゃなく。 文字通りに捨てたもの。 記憶から抹消したつもりだったもの。 そんなものが、何年も経ってから目の前に現れたら…人はどうするものなのだろう? 気づかない振りをする?過去の事として、大人の対応として笑顔で挨拶をするものか? それとも…。 彼は俺の、初めての同性の"恋人"になった人だった。 色気を醸し出す酷薄そうな目元も、煙草と整髪料匂いと香水の混ざった体臭も、酒に焼けて嗄れた癖のある低い声も、全てが好みど真ん中の大人の男。夢中になった。 纏わりついて、恋を告げて、俺と彼は始まった。 まだ18のガキだった俺は、自分の倍ほどの歳の男に、全身全霊を捧げるように必死に、のめり込むように恋をしていた。 彼はバイト先のバーの客だった。 カウンタースタッフのバイトに採用されて3日目の晩の事だ。時間的にまだ客も少なく、俺は客席にオーダー品を運んだりする傍ら、提供するメニューを覚える為にメニュー表に目を通していた。 そんな時だった。カランカランと鳴ったカウベルの音に顔を向けると、すらりとしたスーツの男が入って来るのが見えたのは。 一瞬、時間と心臓が止まった。 高そうなスーツに違和感が無いように整えられた色素の薄い髪に、俳優顔負けに整った顔立ち。少し垂れた目は優しげというより、婀娜っぽい。 もう、立ち姿から違った。彼の周りだけにスポットライトが当たっているように、視線が吸い寄せられる。それは俺だけではなかったようで、店内に居た他の客達も、入って来たその客に見蕩れていたようだった。 男が恋愛対象になるなんて考えた事すら無かった俺が、一瞬でのぼせ上がった。彼の一挙一動から目が離せなくなる。 ゆったりと慣れた動作でカウンターの端に座った彼に内心ドキドキしながら、俺は不慣れな業務をこなしていた。客席から引き上げてきたグラスを洗いながら、彼とマスターの会話に耳をそばだてた。少しでも、彼の事が知りたくて。 彼が帰っていった後でマスターに聞き出した話では、開店当初からの常連らしいとの事だった。 名前は篠原佑一朗さん、31歳。有名予備校の人気講師で、なかなか多忙な人なのだという。そう言われてみれば、目元に少し疲れが滲んでいたようだった。しかし、そんな表情も妙に魅力的な色男。そんな彼がモテない筈は勿論無く…。 彼は決まって毎週金曜の晩にひとりでやって来ては、指定席であるカウンターの奥の席に座った。好物だというナッツのチョコレートを摘みながら、左手の薬指に光る指輪を見せつけるようにしてウイスキーの水割りを飲む。そうして1杯目のグラスが空くのを見計らったように、彼を見ていた客の内の誰かが2杯目をご馳走したいと声をかけるのだ。薬指の指輪に臆する事も無く。 いや、結婚指輪すら彼を魅惑的に見せる小道具になっていたように思う。 他人のもの。触れてはいけない人。 けれど世の中には、そんな禁忌や背徳に魅せられる人間も少なくないらしく、彼に近づく客は絶えなかった。 声をかけられると彼は、暫くはその相手と親密そうに体を寄せ合って何か話す。そして、気が合えば一緒に店を出ていくし、決裂したら彼は相手を席に残し、ひとりでさっさと帰っていった。 既婚者である事を隠す気も無く、後腐れの無い1度きりの関係のみを求めていると噂のあった彼の事だ。きっとそういう事なのだろうと、ガキの俺でもわかった。彼に置いて行かれた客は、その辺の割り切りが利かないだろうと判断されたか、単に彼の好みではなかったのだろう。 そういう人なのだ。俺ではとても手が届かない。 それでも彼が来る度に俺の目は彼に惹き付けられてしまう。それに気づいたマスターの、『やめとけよ』という再三の忠告を無駄にし、俺は胸に抱えた想いを拗らせに拗らせ、そして突っ走ってしまった。 どうしても、あの長く骨ばった指に触れられたかった。その指で髪を梳かれたらどんなに幸せな気分になれるのだろうと。煙草を咥える、少し水分が抜けて乾いたような唇は、やはりカサついているのだろうか。その隙間から覗いている舌は、煙草の苦い味がするのか、それともチョコレートの甘さを残しているのだろうか。 ガキの俺には、彼が恋をするのに危険な相手だとわからなかったんだ。 ただ、夢中だった。 念願叶って、俺は彼に抱かれる事に成功した。彼も俺を気に入ったようで、逢瀬は1度では終わらず2度、3度と重なっていった。 最初は俺のバイト上がりを待ってもらってホテルへ行ってたのが、だんだん俺の休みの日にも会って飯に連れてってくれた。 彼がどんな相手とも一夜限りだと噂に聞いていた俺は、浮かれた。彼は俺には本気になってくれたんじゃないかって。だって、俺と寝るようになってから、彼は店に来て誰に声をかけられても頷かなくなった。そんなの、嫌でも期待してしまうだろう。俺は彼の特別なのかも、なんて。 だから、よせば良いのにある日聞いてしまったんだ。 『俺の事、好き?』 『そうだね、好きだよ』 『奥さんより?』 俺がそう言った瞬間。彼の表情がスッと消え、ひんやりとした目で俺を見た。 『…君の可愛い唇から妻の事は、聞きたくないな』 その声は何時もとそう変わらない優しいものだったけど、それが余計に怖かった。どれだけ彼との仲が深まっても家庭の事には触れちゃいけなかったんだって、頭の弱かった俺はそこでやっと気がついた。 『…ごめんなさい』 素直に謝った。既婚者だって知ってて、それでも良いと思ってつき合ったんだから、それなりに分を弁えるべきだったんだって思った。 今なら、単なる不倫に分もへったくれも無くて、そもそも不倫なんかするなって話だってわかる。だけど、若くて初めての恋の鮮烈さに目が眩んでいた俺には、それがわからなかったんだ。とにかく、やっと実った恋を守る為に、彼に合わせて尽くさなきゃ…そう考えていた。彼の機嫌が悪くなってしまうのが怖かった。 『気をつける』 『うん』 俺が謝ると、彼の表情は徐々に何時もの緩い穏やかさを取り戻して、俺を優しく見つめて抱きしめてくれた。 『2人で居る時は余計な事は忘れたいんだ。わかってくれるよね?』 『…うん』 彼の言葉はこの上無く浮気男に都合のいい言葉なのに、その時の俺の頭の中ではそれさえも (彼は俺との時間を大切にしてくれてる。奥さんの事を頭から追い出したいくらいに…) と変換されていた。 記憶を呼び起こされた今となっては自分の馬鹿さ加減に頭を抱えてしまうくらい、あの頃の俺は無知で愚かな子供だった。大人の彼からすれば、明らかに自分にベタ惚れな小僧の扱いなんて赤子の手を捻るように簡単だったろうなと思う。 けれど、当時の俺にそんな風に思い至る事などできよう筈も無く、ズプズプと彼との関係にハマっていく一方だった。 優しくされて、18のガキではちょっと手の届かないような物を買い与えられて、足を踏み入れられないような店に連れていかれて。 それが愛なのだと信じた。自分は彼にこんなにも特別扱いされているのだから。一夜限りの連中とは訳が違うんだと思い上がってた。 違うんだよな。きっとそれまで彼の相手になった人達は、ただただ皆、大人だったんだろう。だから、深入りしてはいけない相手だとわかってた。ガキだった俺だけが、分別も無く自分から深みに嵌りに行った。 本当に、本当に俺は、馬鹿なガキだった。 結局夢から覚めたのは、見かねたマスターにある真実を教えられた時。 夫婦関係などとうに冷えていると聞かされていた筈の彼の奥さんが、2人目を妊娠していると…。 頭を鈍器で横殴りにされたらこんな感じか、と思うほどのショック。 でもさ、これも考えてみりゃ普通にわかる事だけど、夫婦仲が冷えきっているなんてフレーズも、わかり易い不倫の常套句なんだよな。それなのに、自ら目を覆っていたのは俺自身だ。 しかも現在妊娠6ヶ月だなんて、完全に俺と関係を持った後に夫婦のイトナミがあった訳で…。 ショックの後には、憑き物が落ちたようだった。 うん、やめよう。 パッとそう思えた。 俺は彼との関係を終わらせなきゃならない。そもそも彼と俺の関係に適切な名前などあるのだろうか? 彼は俺をペットのように愛でていただけで、恋人ですらなかった。 俺の求めに応じて耳触りの良い言葉をくれてはいたけれど、それだけだ。 恋愛している気になっていたのは俺だけだった。 それでも体の関係はあるから不倫関係は成立するのだろう。彼の奥さんに知れた場合、本腰を入れて調べられてしまえば同性との不倫でもそれ相応の責任は問われるに違いない。だって、俺は一応成人している。 (馬鹿らしい…) 彼に俺への気持ちなど無いとわかった途端、何と引き換えにしてでも欲しいと思っていた男が色褪せて見えた。 逃げる事を決めた俺はバイトを辞め、店の近辺に足を向けなくなった。携帯電話の番号を変え、彼との連絡の一切を断った。 元々、逢瀬は店とホテルだけだったから、彼は俺の住んでいる場所など知らなかった。聞かれた事すら無かったのは、きっと彼の方も深入りする事をさけていたからだろう。 おそらく、長く続ける気は無かったのだ。けれど、俺があまりに"使い勝手"が良くて聞き分けが良かったから、ラクだと思った…そんなところなんだと思う。 幾つかバイト先を変えて、就職した。 男と付き合っても女と付き合ってもあまり長続きはしなかったが、彼の不実さだけは見習うまいと、彼の事を記憶の片隅に追いやって日々を送った。 現在はアプローチしてくる同僚と良い雰囲気になっているけれど、将来的には女性と結婚して家庭を築いて生きるのも視野に入れて、普通に生きるつもりだ。 いや、そのつもりだった。 捨てた筈のそれは、突然俺の前に現れるまでは……。
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