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四ヶ月後――。
春がすぐそこ迫った頃。ようやく傷が癒えて、歩き回れるようになると、冬ごろからずっと外にでたくてウズウズしていたリリアーヌは、腰の重いクロードを説得してピクニックに出た。小春日和で暖かな陽射しは冬の寒さと矢傷を癒やし、敷物の上に寝転ぶ二人を包む。
「痛くないか」
「大丈夫です」
矢傷の痕は残ったが、そのうち薄くなるだろう。なによりクロードが小さなことは気にしない人だったので彼女自身鏡に映る自分を見ても、さほど気にしなくなった。さしあたりの問題はそんなことではなく、クロードの溺愛がどんどんと酷くなることで、今日も体を持ち上げられたかと思うと、皇帝の膝の上に座らされてキスを強請られる。
「あの、クロード。僕は一人で座りたいのだけど」
「だめだ。大人しくしていろ」
「恥ずかしい……。お願いですから、離して……」
リリアーヌ顔を両手で覆う。どうやらクロードは彼女が恥ずかしがる姿が好きらしく止めて欲しいと言えば言うほど止めてはくれない。一方、リリアーヌの方もアンリのフリをしていた件で罪悪感があるからクロードの要求を強くはねつけられない。だからどんどん彼はエスカレートし、
「さあ」
食事も雛鳥のように水菓子をその口に入れられる。そして、すきさえあれば唇も奪われる。どうやら、もう二人がどういう関係であるかを隠すつもりはないようだ。困ったことに彼女はまだ男装でそれは明らかにイケナイ関係に見える。
「人に見られたらどうするんです?」
「もう皆、俺が男色だと思っている。それでいいじゃないか」
「開き直るんですか」
「別にいいよ、他人は関係ない」
「クロード……」
きっとアンリがリリアーヌだと知れればフォートでもナーラスでも大変な騒ぎになるだろう。皇帝の内意でそのように処置されたと発表されても物議を醸すはずだ。
それになによりクロードが男装の美少女が好きだということに気づいてしまったこともリリアーヌが未だに女に戻れていない理由の一つである。木で枠組みされたスカートよりも身軽な格好の方がいいらしいのだが、彼女にはそのどこがいいのか分からなかった。
「俺の妻なのに、膝の上に乗るぐらいのことを嫌がるとはどうしたものか」
「妻、妻、おっしゃるけれど、僕は一度もプロポーズされたことがないんですよ」
クロードは驚いた顔をした。
「プロポーズしたことがない? こんなに毎日好きだと言っているのに?」
「そうです。一度もないんです」
クロードは顔を手で覆った。
「はぁ、なんてことだ。俺としたことが」
クロードは熟れた果実のようなリリアーヌの唇に触れる。そしておでことおでこをくっつけると、指と指を絡めた。さあ、今からプロポーズか⁈ とリリアーヌは身をこわばらせ、瞬きを止め、ゴクンと唾を飲む。しかしそれは予想外れで、彼はリリアーヌを弄ぶように口の端を上げ、意地悪な顔をしただけだった。
「プロポーズはしてやらない」
「なぜですか?」
「もう結婚しているじゃないか。結婚証明書を見せてやろうか」
「…………」
リリアーヌはすねたが、クロードは笑った。そして「重い」と言い出して彼女を膝から下ろすと、さっさと立ち上がる。その切り替えの早さは見習いたいものである。リリアーヌは腹を立てて、口を尖らせた。
「そんな顔をしてないで、少し、歩こう」
クロードの手のひらが差し出され、リリアーヌはそれを取った。言葉は欲しいけれど、言葉なんかいらないようにも思える。クロードのリリアーヌへの思いは絶対であるし、彼女もクロードの気持ちにこたえている。
「もうすぐ春ですね」
「ああ。春になったら祭りも増えるし楽しみだな」
「スミレ祭りというものが、フォートにはあると聞きました」
「スミレやナツメグサで冠を作って頭に飾って輪になって踊るんだ」
「素敵です」
空気はまだ冷たく、木々は春を迎えるべく裸の枝に若草色の芽を息吹き始めていた。リリアーヌはその光景に北方のナーラスを思い出した。宮殿に軟禁されて、もうこんなところにいたくないと飛び出てきた祖国は、ここよりもずっと北にあるから、まだ冬だろう。雪がうずたかく道の脇に積まれて、皆が春の気配を待っている。
「寒くないか」
コートをクロードが彼女の肩に掛けてくれた。
「ありがとう、クロード」
「あれからマクシムはどうしている?」
「マクシム? いえ、別に普通です。ただ、僕に怪我をさせてしまったことを本当に悔いていて、しばらく仕事に出なかったのですが、今は『陛下に仕えるのが私の使命です』って難しい顔で言ってました」
「そうか……いい臣下をもったな、リリアーヌ……」
見渡せば、フォートの草原は広くそして静かだった。みずみずしい青い丘を踏みしめると、爽やかな草の香りがし、雲のように羊たちがぽつりぽつりと大地を漂う。
リリアーヌは丘を登ると、ここが射られた時に運ばれた古城の裏手だと気がついた。どうしてだろう? 初めて見た時よりも温かみがある場所に感じるのは――。ああ、野生の白や紫のクロッカスの花があたりに花開いているからだ。
「実は話したいことがあるんです」
「なんだ?」
「僕はずっとこのままでは良くないと思っています」
「…………」
「あなたを男色家にしたくはないし、僕もずっと男ではいられない」
「どうしたい?」
「女になりたいんです」
ナーラスでは女王は認められていない。だからアンリのふりをしてリリアーヌが即位した。でも、とリリアーヌは思う。フォートで学問をし、多くの人に出会った彼女は、誰よりも立派な王になれる自信があった。たとえ反対されようとも、女王となり、そしてクロードの妻としても正式に認められたかったのだ。
「君はいつも大変な道を選ぶな」
クロードはリリアーヌの「女王になりたい」という決意を聞くとそう言ったが、ほっぺたをつまんで笑っただけで、反対はしなかった。
「わがままを言ってごめんなさい」
「謝るな。お前は王の素質がある。そして夢を叶える力もな」
「ただ」と彼は言った。最近、彼がよく向ける色気のある切ない視線で、それはリリアーヌを求めている時の顔だった。
「ただ?」
「俺が言いたいことは分かるな」
「分からないです……」
「分からないでは助けてやらないぞ」
「言ってください。僕はなんだってします」
「簡単なことだ。我が妻になれ」
「…………」
もう書類上、りっぱな妻ではないかと言いかけてやめた。
「僕は……」
「君は俺のことが好きなのだろう?」
「はい」
「なら結婚してほしい。俺とともに永遠を誓って欲しい」
「クロード……」
「明日、君がリリアーヌだと公表しよう。そして皇后となり、ナーラスの女王となって俺を愛してくれ」
皇帝が草の上に跪いた。リリアーヌの心臓が跳ね、風で髪が巻き上げる。これまでにないほど真剣な眼差しになると小箱のふたを開けた。
「リリアーヌ。俺の妻となって生涯君を愛させて欲しい」
箱の中身は大きなダイヤモンド。リリアーヌは顔を両手で覆った。声もでない。子供の頃、読んだ物語のままにクロードは皇帝という身分を顧みず、跪いて指輪を差し出してくれたのだ。ああ、なんて言ったらいいのだろう。リリアーヌは息を飲み、そして身を震わせて素直に全身で喜びを表すとクロードの首に飛びついた。
「もちろん!」
「たまには女ことばで言ってみたらどうだ?」
リリアーヌはなんだか気恥ずかしくてたまらなかった。もう何年も女として生きていないから、言葉を改めるだけで勇気がいる。それでも、はにかみながら、小さな声で言った
「お受けしますわ。皇帝陛下」
「よし!」
クロードも恥ずかしかったのだろう。リリアーヌの頭をかき混ぜて、「よし」ともう一度言った。
「さあ、手をだせ、我が皇后よ」
彼女の指に太陽の光を集めた指輪がはめられた。
「きれい……」
クロードがリリアーヌを抱きしめたまま立ち上がったので、少女の足が宙に浮く。リリアーヌは蒼天に手のひらをかざした。掴もうと思えばすぐそこに雲も太陽があるように見えた。
「届くか」
「あとほんの少し」
開いていた手をゆっくりと閉じ、リリアーヌはクロードの腕の中で風を感じて瞳をつぶる。大地の鼓動が聞こえてきそ
うだった。
「僕は世界一、幸せ者だ」
「リリアーヌ。それはきっと二度も君と結婚する俺だろう」
クロードがキスをして、開いたままの教会のドアの向こうに光が斜めに差し込んで見えた。光り輝いているのはたぶん野ざらしの屋根のせいだろう。だけれど、今日ぐらいは都合よく、「これは運命なのだ」とリリアーヌは言いたかった。
了
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