ルキフェルの夢の終わり

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プロローグ  はじめに、女の意思があった。  これは世界と人間が再び生まれて、すぐ後に起きたこと。  いつからそこにあるのか誰にも分からない、一本の大きな木のそばに、黒い髪を暖かな風になびかせた美しい女が立っていた。  その女は、先ほどからその大樹をずっと見つめている。この木は周りに果てしなく広がっている他の木とは違うということを知っていた。そして全ての生の源であるということも。枝先にたっぷりと茂る葉は、春の陽射しに無限に青く光っていた。  女は大樹の幹に触れた。  その瞬間、世界と繋がった。  そして、理解した。世界はどのように始まり、どのように終わるのかを。そして辿るべき運命とは何かも。  すでにこの地上のどこかに生まれている自分と姿形が似た生き物は、いずれ世界の隅々まで増えて行き、この緑の地の覇権を握るだろう、と女は思った。ならば、この大樹の力を手に入れて、その上で彼らを我が胸に誘い込み、この木が”最後の時”を迎えるまで抱きしめてやろう。 『私はもう独りじゃない。これからは、二度と……』  ゆっくりと目を瞑った。風が優しく吹き去った。女は大樹と一つになった。  ――暗い地の下で、細かく無数に張り巡らされた根。  いくつかの太い根から分かれた細い根が、さらなる暗い地中へと向かって限りなく伸びていく。  しかし、その数えきれないほど分かれた根は、次第に一つに束ねられて行き、一本の太い幹となる。  下へ向かって伸びていたものが、今度は日の光へと向かって伸びていく。  幹は再び空で無数に分かれ、枝となる。  同じことの繰り返しに見えるこの形にこそ、神秘があることに女は気づいた。  四方八方に伸びるそれらの枝には、たっぷりと葉が生い茂り、時と共に豊かな緑を育てていく。その果てには、麗しい果実が実る――。  目を開けた。大樹に宿っていた力は、いまや若く美しい女のものとなった。  この生命の楽園で唯一、”全ての世界の形”を知る者となったのだ。  身内に耳を傾けた。あらゆる生命の鼓動が聞こえる。確かにこの地は自分のものになったのだと知った。世界が時を刻む音が、聞こえ始めた。  自分が作る、自分だけの、新しい世界。  全ての世界は、生命は、別れから始まるからこそ、出会う。出会うからこそ、別れる。次の出会いのために繰り返すのだ。結ばれるそれぞれの縁に二つとして同じものはないということは、時が証明するだろう。  いつか、どこかの地で出会う誰かを想像して、女は静かに微笑んだ。 第1章 はじまりの時、所  よく音の反響するこの部屋には壁一面を覆う大きな鏡がある。その先に、台本を手にして立っている女の子と、彼女の前に座ってじっとこちらを見返している自分の姿が見える。  俺はそのポニーテール姿の女の子を見つめていた。静かに待っていることに耐えきれないかのように、さっきから同じところを行ったり来たりしている。動くたびに後ろで束ねた髪は左へ右へと揺れ動く。鏡の奥から神妙な顔つきの男がゆっくりと近づいてきた。彼の方へと彼女は振り向き、もう最低五回はこの部屋で聞いたであろうセリフが発せられる。よく通る彼女の声。講師にもう何度もやり直しをさせられているはずなのに、まるで初めて口にするかのような言い方だ。それに対して、男は何かを言った。彼女は突然泣きだし、両手で顔を覆い始めた。徐々に、ゆっくりと、膝が曲げられる。そして、その場にうずくまった。さっきと違う。パターンを変えて来たな、と俺は思った。突っ立ってむせび泣くよりこっちの方が悲しさが伝わると思ったのだろう。  俺は時折、ここで定期的にレッスンを受けていて、演技というものに果てしない闇を感じることがある。その度ごとに、本当に俺は俳優としてカメラの前に立てるようになるのかと不安になる。どれだけ顔に皺を寄せて悲しんでるように見える顔をしても、心の奥底にいる自分は、常に無感情で冷徹だ。というより、そうでなくては演技が成り立たない。その時、自分の中にいるもう一人の俺は、セリフを思い出そうと躍起になったり、自分の立ち位置を確認したりして、物語ではない本当の現実に意識を置いている。難しいのは、実際に思ってなくてもそう思ってるように見せなくちゃいけないということ。俺はその困難に直面するたびに、仮想の世界を真実の世界に変えて、芝居として成り立たせることは本当に可能なのかと思う。  火照っていた体はもう涼しくなっていた。さっきレッスン生たちの前に出て演技した時に早まった鼓動は、いまでは穏やかになっている。  現役舞台女優の講師が次の生徒の名前を呼ぶ。俺の隣の五つ年下の男が立ち上がった。  物語の人物を演じた後の感覚は、いつも奇妙だ。まるでさっきまで全く別の世界にいたような感じだ。台本という扉を通り抜けて、二つの世界を体験しているような余韻が残ることがある。役に入り込みすぎた俳優が現実と架空の境目があいまいになり、精神的な病を患ってしまうことがあるのはそういうことなのかと、身をもって納得させられる。  だが自分はそういう俳優になりたいのだ、と俺は思った。そのためのレッスンがどれほど厳しかろうと、大した苦ではない。  講師が立ち上がり、前に出た。台本が変わるようだ。  生徒たちは各々指定されたページを開く。  次のシーンはこういうものだった。「主人公の男は、高校生の頃にとある女子生徒のことを好きになった。しかし打ち明けられないまま卒業してしまう。数年ののち、社会人となり、仕事先の全く違う土地でその女性と再会する。男は彼女と喫茶店で昔話に花を咲かせた後、かつての熱い恋心を次第に思い出して行きながら、時間の壁を隔てた告白についに成功する」  講師の掛け声がかかる。再び選ばれた一組の男女が椅子に座り、台本通りのシーンが始まる。  右側に見える一人はこのクラスで一番仲のいい男。俺の二つ下で、二十四歳。その向かいに座っているのは、最近気になっているショートボブの可愛い女の子。二十一歳で、まだ大学生らしい。人づてで聞くところによると、最近朝ドラでデビューして一躍人気者となった有名女優さんに憧れてその髪型にしているらしい。  視線は二人の方に置きながら、俺はまた物思いにふけっていた。  いま、俺は二十六歳。ここにいるレッスン生の中では一番年上だ。……俺は夢を見るには少しばかり遅すぎた。それは自分でも分かっている。だが、俳優こそが人生で初めて見つけた本当にやりたいことなのだ。何年間も自分の将来に悩んだ挙句、ここ二年の間で出した答えだった。無限にある中で、自分の意思で選び抜いたこのただ一つの道を信じて、どれだけ困難でも突き進んで行こう、そう思っていた。  しかし、現実と理想の間は、まだ遠い。地元を飛び立つことすら出来てないのだから。世間的には俳優などの芸事を目指す人間は上京してはじめてそこからスタートするはずだが、所詮、九州のアルバイトの安い賃金では、上京の費用とレッスン代をセットで稼ぐことは簡単ではなかった。だから、この生まれ育ったふるさとにいながら少しでも夢を前進させたいと思い、レッスン日以外はほとんどアルバイト漬けの日々を送っているのだ。  その選択は間違っていなかった、と俺は思った。俺は曲がりなりにもこうして演技レッスンを受けながら「夢が前に進んでいる感覚」が味わえていた。それに、こうした想像の物語の中の、自分ではない誰かの感情を言葉に乗せて喋っているときは、演じるということの楽しさを確かに感じられていた。 「それじゃ最後、ミノル! 最後にもう一回いっとこうか!」  俺は勢いよく立ち上がった。講師のその言葉でレッスンが終わりに差し掛かっていることを知りながら、「前半でしでかしたミスを全部取り返すぞ」と意気込んだ。  稽古場の中央に出た。生徒たちみんなの視線を感じる。体は一気に熱を帯びた。 「よーいスタート!」  講師が手をたたいた。  俺は相手役の女性へ向けて、セリフを一つひとつ口にし始めた。今度はこのシーンに現実味が与えられるはずだ。感情がちゃんと出せるはずだ、と思った。 「お互い、この五年間でいろいろ変わったよね。  大学を卒業して、社会に出て、住むところも変わって、新しい友達もできたりして」  そこで一旦言葉を切った。少し待った。 「いろんな人たちに出会って、いろんな経験をした。だけど、それでもこの五年間、君のことは忘れられなかった。  ……僕は、君が好きだった。いや……」  俺は相手の目を見据えて言った。 「君が好きだ」 「結木くん、またねー!」  レッスンが終わり、生徒たちは夜の街に散らばって行った。俺は一人、長い歩行者天国を歩いていた。  一際人通りの多いこの屋根付きの大きな通りは、片側二車線の道路の真ん中に路面電車のある大きな通りまで伸びている。そこへ至るまでにありとあらゆるジャンルの店がひしめいている。地元民にとっては巨大な商店街だ。東京や大阪の大都市と比べると、どうしてもさみしい品揃えだが、ここに住んでいる人間にとってはもっとも便利なところなのだ。街の中心地であり、若者たちの遊びの拠点だ。ハロウィンやクリスマスのようなイベントがある度に、コスプレをした若い男女が仕事終わりのスーツの中年男性たちの間を闊歩している。暖房の空気が換気扇を通して通りの出口から見える寒空に解放される。下通の端まで来た。屋根が消えたこの先に、自分の車を停めている立体駐車場がある。  クリスマスの装飾がいくつも目の端を通り過ぎていく。その輝きのおかげで、いつも以上に下通は活気があるように見える。通りのあちこちに見える、互いのコートを擦り合わせるようにして歩いている男女のカップルが、その雰囲気を確かなものにしている。  ――俺にも彼女はいた。つい数か月前までは。それが今では一人寂しく周りのカップルの温かな触れ合いを見てほくそえんでいる。ここ何年もの間、クリスマスは必ず彼女と過ごしており、一人でその日を迎えるということは一度もなかった。だから十二月に入ってからというもの、だんだんと俺の中で違和感が強まって行った。今年は寂しいクリスマスを過ごすことになるのか、と俺は落ち込んだ。  寒さといま見ているものから逃れようとするように、自分の車を目指して裏通りを足早に歩いた。  すると、フラッシュバックのように先ほどのセリフが頭の中で蘇ってきた。 <いろんな人たちに出会って、いろんな経験をした。だけど、それでもこの五年間、君のことは忘れられなかった。……僕は、君が好きだった。……いや、君が好きだ>  稽古場では全くそんな風には思っていなかったのだが、ふしぎなことに今ではこの言葉がまるで自分の本心から出てきたかのように感じていた。このセリフはまぎれもなく講師が書いてきた、ストーリーもセリフも全くの架空のもののはずだ。それなのに、だんだん自分自身の人生のワンシーンを切り取ったような気がしてきていることに、俺は奇妙な感情を抱いていた。レッスン中にずっと「自分の言葉のように本当の感情をこめてセリフを言うんだ」と意気込んでいたせいでこんな風に感じているのだろうかと思った。  立体駐車場に着いた。ボタンを押してロックを解除し、黒光りする自分の車に乗り込んだ。 <僕は君が好きだった。いや、君が好きだ>  エンジンをかけるためにボタンに伸ばした手が、止まった。  なぜいま、あの女の子の笑っている顔を思い出したのか。その理由が分かるよりも前に「なぜ今、”彼女”が俺の傍にいないのか」ということへの悔しさとやるせなさが混じったものが湧き上がってきた。 俺はアパートの自分の部屋に辿り着くと、すぐにベッドに座り込んだ。 そして“彼女”の顔をより正確に、この瞬間に再現するために頭の中を探った。 ”彼女“の名前は「星園カレン」。出会ったのは、高校二年生の時。それ以来、結構な頻度でいつも一緒だった。……大学生三年生の頃までは。いま思えば異性でありながらあれほど近い距離感のままずっと友達でいられたのはある意味奇跡だったんじゃないかと思う。「男女の友情は成立しない」なんていう言葉があるが、こうして振り返ってみると実際に成立している。それができたのも、カレンの性格があったからこそだ。  俺の頭の中は過去を旅していた。過ぎ去った出来事を思い出すとき、とある法則をもって現れることがある。俺の場合はこんな風にカレンの姿が蘇った。辺りを無条件に明るく照らす笑顔、低音を響かす独特の笑い声、本当におもしろいと感じている時によくやる手を叩くしぐさ……。  カレンの笑い方は決して上品とは言えなかった。目の前に男がいるからと言って口を抑えたり声を押し殺したりするわけでもなく、とても伸び伸びと笑った。そしてあの笑い声。あまりに唯一無二の笑い方をするので当時俺は頻繁にネタにしていたのだが、いま思い出して改めてそのおかしさにほくそ笑んだ。ツボに入って大笑いしているときが一番ヒドく、スタッカートで低音を響かすような声を出すから、それがまた俺にとっては格好のツッコミどころだった。  レッスンでほどよく疲れた体をベッドにあずけた。  俺は無意識にここ数年の間に付き合った女の子たちとカレンを比べていた。  カレンはなんて“良いやつ”だったんだろう、と俺は思った。一体どこで学んだのか、彼女は男子とのお決まりのノリを心得ていた。おもしろいことをすべて愛していたような女の子だった。だから、クラスで活気のある楽しい雰囲気が生まれた時は、ほとんど毎回と言ってもいいほどその中心に彼女がいたものだった。元々、彼女は誰とでも分け隔てなく仲良くできるような、たくさんの人間を無意識に惹きつけられるタイプだった。実際、同じクラスどころか他のクラスの男女と楽しそうに話しているところを何度も見ていた。  それでも、彼女は決して「三人の絆」を忘れることはなかった。  カレンと、俺と、それからナオトの。  俺はおもむろに身を起こした。  今田ナオトは、カレンよりも先に高校で出会った男の友達だった。高校一年生のころに同じクラスになり、それから頻繁に休日に二人で遊びに行くような仲になった。高校時代の全ての楽しい思い出の基礎は、レストランの一席を長々と占拠して何の役にも立たないようなお喋りをしたり、互いの家でテレビゲームをしたりする、ごくささやかな時間によって形作られていた。  二年生になり、ここにカレンが加わった。今となっては、なぜ誰からも好かれるような人気者のカレンが、俺とナオトという、どちらかと言えば地味な二人に、一本糸を差し伸べて絆を結んでくれたのか。いまとなっても分からない。これといって取り留めのない緩い関係性が意外と彼女にとって居心地が良いものだったんだろう、と自分なりに考えていた。  ――にわかに気分を乱す思い出が湧き上がってくる予感がして、ベッドのスプリングで勢いをつけて立ち上がった。考え事はもう止めだ。  その後、簡単に作った料理で手早く夜ご飯を済ませ、早めに寝床についた。  次の日。  昨日感じた幸せな思い出に浸るようなうっとりした気持ちに、痛みが加わっていた。  夕方の居酒屋のアルバイトまでに、まだ五時間もある。その時間まで何かをしようという気持ちも、まるで湧き起こって来ない。ベッドに潜りながらずっと寝ぼけたような頭で「過去のとある一連の出来事」に囚われて動けなくなっていた。  大学に上がってからも俺とナオトとカレンは高校時代の様な仲の良い関係を保っていた。三人とも県外には行かず、それぞれ大学こそ違うものの、地元に残った。  この時期からおかしくなっていった、と俺は思った。  大学二年、三年のあたりから、十代のころの未熟だが美しい関係に歪みが生まれていた。俺が「ナオトはカレンと付き合っているのではないか」と訝った時には、すでに固結びだと思っていた絆はほろほろとほどけていた。  そして卒業式の当日、人づてにカレンとナオトが別れ、それぞれ地元である九州を出て就職したということを聞いた。その時にはそれぞれの糸は別の方向を向いており、各々が交わることのないただの一本の糸になっていた。  日が傾きかけてきた。ビルの側面が徐々に赤く染まってきているのを見てそれと知った。俺は再び街に戻っていた。 アルバイトの度に通る下通は、いつ来てもたくさんの人が行き交っている。授業が終わって解き放たれた中学生や高校生の奔放な笑い声があちこちで聞こえる。商店街にあるスーパーに夕食の買い物に来たのであろう中高年の女性たちの間を縫って、俺は足早にアルバイト先へ向かう。五分ほど大きな通りを進むと、右側に細い路地が見えて来る。ここは下通とは違って屋根がないので、通りの騒がしさが青空へと突き抜けて、少しひっそりとする。しかしその代わり歩行者天国ではなくなるので、時折通る車に注意しながら歩かなければいけなくなる。 ここに入ればもうあと少しで着く。 ――朝起きてから頭の中にあった一つの想念は、いまだに尾を引いていた。 俺はこの数年間でたくさんの女の子と付き合ってきた。可愛い感じの子もいれば、美人な感じの子もいた。素直な子もいれば入り組んだ子もいた。理想の女の子を探してあれこれと手を付けていった。人並みかそれ以上には恋愛の経験は積んできたはずだ。そしてそのどれもが上手くいったはずだ。それなのにいま俺の心の焦点は、彼女たちとの記憶を通り越した、とある過去の一点へ向かって結んでいた。 『タイミングは数えきれないほどあったはずだ。それなのに、なぜカレンに告白しなかったんだろう』  この言葉は今日だけでも何度も頭の中で浮かび上がった。白昼夢のように具体的な映像と質感をあとに伴って。  カレンの顔が思い出されるたびに、次の言葉も一緒に浮かび上がった。その言葉の裏にある思いは、繰り返される度にむしろだんだんと澄んでいった。 『正直、別にカレンは可愛くはなかった。小動物のようなキュートさとはほど遠かったし、”清楚さ”とは無縁な女の子だった。確かに顔形は人一倍整っているかもしれないけれど、目の覚めるような憧れを感じたことはないし、性的に興奮したことはほとんどない。クシャミの仕方もどちらかといえば下品だし、女の子らしい甘え方をしているところなんて、一度も見たことがない。  俺はこれまで、それなりに色々な女の子と出会ってきた。それなのに、いまひたすらカレンのことだけを考えてしまっているのはなぜ?   夢のためにいつも未来に向いていたベクトルが、突如として過去に向いてしまったのはなぜ?  ”恋愛”とか”異性の理想像”とかを全て通り越して、ただカレンを求めているのはなぜ?  カレンこそが、今まで出会った中で一番自分に合う女性だという思いから離れられないのは、なぜ?』  俯きがちに考えながら歩いていたので、気づいたときにはすでにアルバイト先に到着していた。  いつものように裏口の扉の鍵を開けようとした。  その瞬間、激しい違和感を感じた。  何か目に見えない得体の知れないものに背中から襲われたように感じて、鍵を挿し込もうとした手が止まった。  さっと、空気中の物質がごっそり入れ替わったような、そんな感覚――。  元々ここは薄暗く、人通りが頻繁にあるような場所ではないので、より一層気味が悪く感じた。早く中に入ってしまおうと素早く鍵をドアノブに挿し込もうとした。しかし、挿さらない。もう一度鍵穴をよく見て、押し込んだ。同じだ。まるで穴そのものがコンクリートか何か固いもので塞がれているように、少しも鍵が前に進まない。試しにドアノブを回そうとした。びくともしない。隙間という隙間を溶接されたような固さだった。  訳が分からない。一体何が起きているんだ! 寒気を感じながらドアから後ずさった。  ビルの屋根付きの裏口を出て、路地裏のアスファルトに足が着いた途端、先ほどよりも強烈な違和感が俺の全身を包んだ。全細胞が別のものに変容させられているような気持ちの悪い感覚に、吐き気すら感じ始めた。  首をひねり素早く周りを見渡した。  何もない。それが、俺が最初に感じたことだった。路地に並んでいる店の外観や看板はいつものままだ。しかしそれなのに、なぜこんなにも怖い。なぜこんなにも空虚に満ちているんだ。  人が一人も見当たらない。この細い路地はいつも人通りがそこまで多くないとはいえ、これはいなさすぎる。  というより、人の気配そのものがが全く掻き消えていた。生物そのものが全て、俺を残して地球上から消えてしまったような。  恐怖に続いて、理解しがたいほどの物寂しさに襲われた。とにかく誰か人を見つけなければ、と本能的に思った。大通りに出るために路地を戻ろうとした時、先ほどまでは視界に入らなかった、さらに大きな「異変」に気づいた。時間帯を考えればおかしくないか、と一瞬思った。俺は視線を徐々に上に上げ、空を仰いだ。いや、赤すぎる――。  血のように真っ赤な空。見たこともないほど濃く、深い、赤色に染まった空。  腰が抜けて崩れ落ちそうになるのを寸前でこらえていた。  俺の違和感はその時、頂点に達した。  不気味な空から逃れるように、大通りへ向かって走り出した。  走れば走るほど恐怖はつのるばかりだった。聞こえるのは自分の足音のみ。その音がおかしいのだ。まるで、周囲に反響する前に空気中に瞬時に吸収されて行っているような……。  店がいくつも立ち並ぶ下通に戻った。  そこで、さらなる衝撃が俺を襲った。膝が大きく震えていた。  あれだけ人という人に埋め尽くされていた通りに、誰もいない。  無音。日頃の活気が無かったことにされているかのように、物音ひとつ聞こえてこない。  俺は泣き出しそうになっていた。男だから、大人だから、泣いてはいけないという常識は、いまの俺には通用しなかった。  まさに涙が目に滲んでこようとするその瞬間、背後から扉が開く音が聞こえた。俺は無心でその方へ駆け寄った。誰でもいいから”人”がいて欲しかった。  薄暗い、空っぽの喫茶店の扉から出てきたのは、頭の薄い五十代くらいの男だった。彼を見て俺が最初に感じたのは「黒さ」だった。首からくるぶしまで、真っ黒い服に覆われている。胸元に付けているバッジのようなもの以外、全てが黒い。身に着けている服は、まるでさっきまで自動車の整備でもしていたかのような作業服だった。  俺はこの瞬間ほど、”誰か”が近くにいてくれることに嬉しさを感じたことはなかった。彼の顔を見て安心したことで一気に感情が溢れ出た。その時の声は自分でも分かるほど震えていた。 「さっきからなんかおかしいんです! 周りに、たくさん人がいたのに……誰もいなくなってるし、何の音も聞こえてこないし……空はなぜか赤いし……! 一体何なんですか、これ……!?」  それに対する彼の言葉は、全く予想していなかったものだった。  「ああ、もう大丈夫だよ、安心して。今から元の世界に返してあげるからね」  俺は呆然とした。体感で数秒の間、何も言葉が出てこなかった。 「え……」俺は停止した思考を無理にでも動かそうと努めた。この人はいま起こってる怪奇現象について何か知ってるのか?「元の世界?どういうことですか?」 「元の世界は元の世界だよ」  何も問題など起きていないとでも言いたげな、ゆったりとした低い声でそう言いながら、男はおもむろにポケットに手を突っ込んだ。  そのポケットは膨らんでいた。何かが入っている。緩んだ筋肉は再び瞬時に緊張した。 「この時間はいつもならアルバイトをしてるはずだろう? いつも通りの世界に君を戻してあげるんだよ。予定通りにね。ここは来ちゃダメな世界。だから君は戻らなきゃ」  俺は男の言っていることが何一つ分からなかった。 「はい、それじゃあ目を瞑って、私が十数えるうちに……」 「ちょ、ちょっと待ってください! 何が起きてるんですか! あなたはこの赤い世界について、何か知ってるんですか?」 「知ってるよ。だけど教えたところでなぁ」 「そんないきなり『元の世界に戻す』だなんて言われても、訳が分かりません!」俺の感情は理解を超えた現実への恐怖によって不安定になっていた。「それに、教えてもらわないと目なんて瞑れませんよ!」  男はため息をついた。 「分かったよ。ただ、どうせ君は信じないだろうし、これから話すことをたとえ信じたとしても、目覚めた時には夢になってるさ。  ――世界は数珠のようなものだ。  数えきれないほどたくさんの玉が床に散らばっている。  その一つひとつは美しく照り輝き、どれも完璧に見える。  だが、それだけでは息をしない。世界とはならない。 無限にある玉を選び抜き、糸で束ねて、連続性のある一つの流れを作る。 その時はじめて世界となる。その中ではじめて、人々は物語を紡ぐことができる。 しかし、中にはその数珠の連なりからはみ出してしまう人たちがいる。 それが君だ。 君は毎日、何不自由ない平穏な生活を送っている。心配事と言えば、東京で俳優になるためのお金が貯まるかどうかだけ。だが、夢と共に過ごしている平和な日常の裏には、君たちが信じられないほど広くて複雑な世界が広がっているんだよ。 『現実』は、君が感じているもの一つだけじゃないんだ」  俺は必死に男の言葉を飲み込もうとした。だが到底理解が追いつくとは思えなかった。 「俺がいつも認識している現実以外にも、現実がある……それっていわゆるパラレルワールドみたいなものってことですか?」 「ざっくり言うとそうだな。君たちがパラレルワールドと呼んでいるものは、この赤い世界の前後にある。さっき言った通り、世界は連続しているからな」  オカルトや都市伝説だと思っていたものを即座に肯定されて俺はひどく衝撃を受けた。男の話を聞きながら、全身から血の気が引いていくような感じがした。 「パラレルワールドに隣接しているといっても、ここは本当の世界ではない。数珠の玉と玉の間にあるもの。普段生きている世界とのコネクトがおかしくなって、”はぐれ者”になってしまった人々の受け皿的な場所だと言っていい。ここに存在している全てのものが静止していて人っ子一人いないのは、この世界がある意味で偽物だからだ。君がさっきまでいた世界の名残を残しているだけの、空っぽの世界」  体内の臓器が全てひっくり返って逆さまになったような気がするほど、心の奥深くで愕然としていた。俺がこれまでの人生で養ってきた認識は打ち砕かれて粉々になっていた。 「教えられるのはここまでだ。さ、準備はいいかい。目を瞑って十秒数えて」  これまで何人俺のような人間を元の世界に戻したのだろうか……。この男のスムーズな言い方には事務的に処理するような慣れた響きがあった。  他にも数え切れないほど聞きたいことがあったが、もう一秒たりともこんなところにいたくないという気持ちも相まり、諦めて素直にその言葉に従った。  一、二、三、四……。  次第に襲ってくる眠気。思考が揺らぐ。  五、六、七、八……。  沈んでいくような眠気はどんどん強まり、抗いようのない強さになった。 意識が遠のいて行く中、目を瞑る瞬間に男の胸元に見たバッジらしきものが瞼の裏に蘇った。 星と蛇。四方八方に光を投げかける星の上に、渦のようにとぐろを巻く蛇。怪しく光る赤い一つ目は、異界へ誘うよう。まるで夜空に輝く星のように、黒地の作業服の上で金色に輝いていた。 九、十。 その瞬間、俺の意識は遥か彼方へ飛んでいた。 第2章 夢が叶った世界  目覚めた。 見覚えのある天井。 いつもの寝室。 朝日がカーテンから漏れている。 体をゆっくりと起こした。 自分の身に何が起きたのか理解しようとした。  だが頭の中は靄がかかったようにおぼろげだ。その先には、先ほどまで”自分がいたと思っていた世界”がある。目の悪い人が目を細めて見ようとする時のように、過ぎ去った夢の世界を思い出そうとしていた。 『今までのが全て……夢?』  次第に、信じられない気持ちが俺を襲った。まるで失われていた五感が一つひとつ蘇り、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるようになっていった人間のようだった。その時に味わったのは喜びではなく、「現実だと思っていたもの」を有無を言わさず否定されたことへの、底知れぬ戸惑いだった。  自分の腕に触れた。パジャマの上から、自分の体がいま確かにここにあるということを確かめた。いまいるのは頭の中、想像の世界ではなく、ちゃんと物質として構成された現実の世界だということを確かめた。この存在の”重み”、いまここを認識しているこの感覚……これが現実ではなかったら何が現実だというのか。ではやはり、さっきまでいた世界は夢だったのだ。  覚えているだけさっきまでいた世界のことを遡ってみようと思った。多くは厚い雲のようなものに覆われていてほとんど思い出せない。断片的ないくつかの記憶を取り出してみる。その大きさと深さに圧倒された。どれもが、時間にして優に年単位の厚みがあるのだ。まるで本当の自分の一生を思い起こすように。  子供時代の記憶もある。だがこれは確実に「自分がたどってきた子供時代ではない」と言えるものだ。だからこそ、夢だと思える。  しかし、夢の中だというのに異様なほどの現実味が伴っていた。子供の頃から大人になるまでの期間を経てきたという“実感”がある。  この“実感”に、気持ち悪さすら感じ始めていた。  子供のころ公園でひとりで砂遊びをしていた時の自分、小学生の時に自転車で交通事故を起こした時の自分、中学校の卒業式の時に桜の花びらが舞っている中で面識のない女子生徒に告白された時の自分、そして、高校時代に学校で一番仲が良かった男の子と女の子の三人でトリオを組んで文化祭でコントを披露し、観客席から聞こえる爆笑に心底ほっとした時の自分……。  特に高校生の時に出会ったその二人には強い結びつきを感じていた。知らない土地の、知らない人のはずなのに。おぼろげな記憶の中でも、不思議なほどに彼らとの思い出が際立って残っていた。それなのに、彼らの名前と顔が思い出せない。教室内で談笑しているシーンや、修学旅行に行ったときのシーンなどは思い出せるのだが、二人の顔は切り取られたようにそこだけ空白だった。要となる中央のピースだけが抜け落ちた、未完成のパズルを見ているようだ。  ――時間が経つにつれて夢はさらに遠くなっていった。その代わり「現実」が次第に近づいてきた。 『そろそろ準備しなきゃ。仕事に遅れる』  ベッドから起きてスリッパを履き、窓際まで歩いて行った。起き抜けにベランダに出るのが朝の日課だ。  扉に手をかざす。すると、「プシューッ」と空気が一気に抜ける音がした。室内は常に過ごしやすい一定の気温が維持されているので、その温度を保つために換気の場所以外は隙間なく密閉されているのだ。夏や冬は特に本領を発揮して、温度の変化による不快感やストレスなく過ごすことができる。扉は触れずともそのままゆっくり右に動いていった。開くにつれて徐々にせき止められていた初夏の湿気を含んだ温かい空気が勢いよく入り込んできた。朝日を全身に浴びて、少しずつ頭が目覚めてきた。  水色にエメラルドを融かし込んだような空と、眩しく照りつける夏の太陽。この青でもない緑でもない、微妙な空の色が子供の頃から好きで、この世で一番の芸術品だと思っていた。昔からなんでみんなもっと空の色の素晴らしさについて語らないんだろうとさえ思っていた。  ベランダに出て、この空を真上に見上げながら思いっきり伸びをするのが毎朝の日課だ。今朝も街は元気に輝いている。俺はいつもやるようにツタが絡んだ手すりにもたれて遠くを眺めた。  高くそびえるビル群の先で、さらに一層鋭く天を突いているのは、東京のシンボル「ツリー・オブ・ライフ」。この建物は日本でもっとも巨大な建築物だと言われている。遠く離れたこの高層マンションから見ても見上げる高さだ。高さだけでなく、横の大きさも壮大だ。まるで山の裾野のように、下に行くほど「ツリー・オブ・ライフ」の白い肌が地面を覆っている。その裾の広さは数百メートルにも及ぶと言われている。これだけの規模だから、東京だけでなくこの日本においても象徴的な存在感をもつのは当然だった。その形状からして倒壊する可能性はほとんどゼロだろう。  またそれだけでなく、空へ向かって伸びているのと同様に、まるで根っこのように地下にもこの一部が続いているらしい。彼も詳しく知っている訳ではないが、地下深くに根を伸ばしている理由はこの巨大な建物が「この国のエネルギーの拠点」だと言われる所以らしい。というのも、この「ツリー・オブ・ライフ」は地下と大気中の両方からエネルギーの素となるものを吸い上げ、さらに建物表面から得られる太陽光の力を混ぜ合わせて、電気エネルギーを生み出しているという。植物の光合成を科学的に利用して、無尽蔵の電気を国中に送り出している。だから、その名の通り「生命の木」というわけだ。  俺はベランダの数十メートル先にある、夏の日差しを受けていっぱいに生い茂る”本物の”植物の方へ歩み寄った。ここで栽培しているいくつかの野菜や果物に自ら水をあげるのも、朝の習慣の一つだった(水やりもベランダの清掃も全部自動で済ますことができるシステムがこのマンションには備え付けられているのだが、俺はあえて自分でやった)。  このマンションは「空中庭園」のようになっており、高層マンションではあるが一階から最上階まで、広々としたベランダが日の光の下にせり出している。各々の階のいずれにもみずみずしい果物を実らせた木々、青いクッションの様な生垣、麗しく咲き並ぶ花々など、多様な植物が生えており田舎で見られるような自然の光景が、上から下までベランダに並んでいる。こういった光景は東京に限らず他の都市においても何年も前からあったものなので、別にこのマンションだけが特別というわけではない。  植物たちへの水やりを終えて、室内に戻った。スマホで時間を見て十分まだ時間があるのを確認した。軽く自分で朝ご飯を作りながら、今日の撮影シーンを脳内でおさらいした。昨夜、監督から言われた今日のスケジュールはちゃんと覚えていた。まず、朝一発目は高校の貸切校舎での、休み時間のワンシーンだ。(年齢の割には老け顔に見えず俺は自分でもほっとしたのだが)学ランを着て、クラスメートである主人公のセイヤと何人かの友人たちと弁当を食べながら談笑するシーンだ。そこで俺は様々な都市伝説を挙げながら、とある廃墟の中にタイムスリップできる不思議なドアがあるという話をセイヤたちに饒舌に語る。話をもとにセイヤたちはその秘密のドアをくぐり、石器時代にタイムスリップする。その時代に出会った美しい少女と恋に落ち、次第に国の戦に巻き込まれていくというストーリーだ。俺の役は小さいながらも主人公たちを異世界に連れていく重要なキーパーソン的なキャラクターというわけだ。出演している身ながらも『これはおもしろい映画になる』と思っていた。  朝食を終えてコーヒーを飲みながらリラックスしていたところ、携帯にメッセージの通知が来た。マンションのエントランス前に、撮影所へ向かうワゴンが到着したようだ。  まだ夢の余韻のようなものが頭の片隅に残っている。なぜか強く残る、忘れてはいけないことを忘れているような感じ……。俺はその奇妙な感覚を拭おうと、玄関で靴を履きながらシーンを思い出しつつ台本のセリフを呟いた。仕事モードに切り替わったのを確かめて、ドアを開けた。  俺一人が乗るには大きすぎるワゴン車は、眩しい朝日を受けて黒光りしながらマンションの前に停車していた。自動で開くドアを待って、いつもやるように跳ねるようにして乗り込んだ。  無人の自動車はゆっくりと動き出した。目的地はすでにインプットされているので人が運転せずとも自動で撮影所まで送り届けてくれる。逐一交通情報を取得して走っているので、渋滞が発生したところを迂回しつつ、常に最短ルートを走ってくれる。  俺は滑るようにバッグに手を挿し込んで台本を取り出した。今日撮影するシーンを確認するためだ。車の中は俺一人しかいないので、いつも声に出して自分のセリフを最終チェックしている。  しかし、今日のセリフはなぜか俺の胸をざわめかせた。台本を見ずにシーンをイメージしながら空で言えるくらい覚えているし、どの言葉に重きを置いてセリフを発した方がいいのかも分かってるのに、セリフを繰り返している間は、妙に鼓動が早まる。今日の教室での昼休みのシーンはいわゆる”前フリ”の段階であって、主人公たちがその後に繰り広げる冒険と比べると対して重要ではないというのに。  心の高まりに釈然としないまま台本を閉じた。  役作りのためにセリフの中の背景知識を出来るだけ知っておこうと思い、携帯を取り出して一つひとつの固有名詞を検索していった。  とある単語を調べているとき、一つのマークが目に留まった。  説明書きを読んでみると、大昔には星の象徴として扱われていたらしいことが分かった。  星が夜空に光り輝いている様子を線で表しているようだ。  「五芒星」は知っているが、「八芒星」、か……。  俺はしばらくそれを凝視した。  その時、俺は頭が前後に大きく揺さぶられた感じがした。思わず両手で頭を支えたが、揺れているのは頭ではなく脳そのものだと分かった。……まだ揺れは止まない。めまいのように焦点がぼやけ始め、携帯の画面に映っている図形もぶれて見えてきた。  八つの方向に鋭く光を放っている、星を象った図形。太古から受け継がれているもの。  ――文明のはじまりから。  おさまらない揺れと先ほどよりも早い胸の鼓動に堪えながら、 『どこかでこれを見たことがある』  と思った。  この既視感には、何か日常を超えた信じられない体験、例えばミサイルでも降ってくるような、壮絶な感覚が伴っていた。大きな波こそないが人並みに幸福な日々を送ってきたこれまでの自分の人生を振り返ってみても、そんな壮絶な体験はどこにも見当たらなかった。  顔を引き剥がすように画面から目を離し、少しばかり火照った体をシートにあずけた。撮影前にメンタルを崩してはいけないと思い、しばらくこうしていることにした。  十分ほどたって車はゆっくり停車し、目的地に着いたことを知らせる音が車内に流れた。  監督のスタートの声がかかった。  騒がしい昼休みの教室の中で、学ランを着たショウタ役の俺は周りの男子生徒たちへ向かって興奮しながら聞いた。台本は全て頭に入っている。あとは周りの雰囲気に合わせるだけだ――。 「昨日のニュース見たか? 太平洋の海底に沈むムー大陸が核戦争で滅んだ決定的証拠が見つかったって話!」  向かいに座っているセイヤとマサはどちらも弁当のおかずを口に入れながら「んーんー」と首を横に振った。二人ともあまり興味がなさそうだ。  セイヤは飲み込んだ後に、 「核戦争? ずっと昔の文明なのに?」  と聞いた。  それに対してショウタは生き生きとした声で「そう! そこがすごいところなんだよ!」と答えた。  マサはあとに続いて、箸の先を口に含みながら考え込んだ様子でこう呟いた。 「……”歴史は繰り返される”ってよく言われるけど、本当なのかもしれんね」  ショウタはマサの言葉に『待ってました』と言わんばかりに熱を込めて説明し始めた。身を乗り出して指先のジェスチャーを加えた。 「うんうん、僕もその説を推すよ。人類はこれまで何度も文明を興しては滅んでを繰り返してるんだと思う。それに、人類最古の文明と言われる古代メソポタミアの時代には天まで届く巨大な建築物や、今じゃ僕らにとって当たり前の『空中庭園』がすでにあったらしいし。だから、姿形は違っても同様の営みを人類が繰り返すってことは、歴史を紐解いてみても十分説得力のある仮説なんだよ」  座りなおして、ショウタはさらに言葉を続けた。 「それでだ。そのメソポタミア文明の後世への影響は計り知れない。イシュタルっていう女神……」 「ストップ! ストォーップ!」  突然セイヤはショウタの顔の前に手をかざして制した。そして苦笑しながら言った。 「ショウタは語り出すとチャイムが鳴るまで止めないからな」  マサも笑いながらそれに同意した。  ――しばらくこの男子生徒たちによるシーンが続けられた後、監督のカットの声が教室に響いた。     俺は再び自動操縦のワゴンに乗って街中を走っていた。今日予定されていた分の撮影が滞りなく終わったことへの安堵で、心の中は柔らかなさざ波のように穏やかだった。  夕方の街を疾駆している静かな車内から東京の街並みを眺めた。どこまで行っても、どこを曲がっても、巨人のようなビルが空を埋め尽くしている。俺たちの生活は機械仕掛けの無機質な巨人に守られているかのようだ。  これだけ空が金属に覆われていても、過ぎ去っていく横断歩道や喫茶店のテラスは程よい夕暮れの黄金色で輝いている。それは、立ち並ぶ巨大な建築物が太陽光を遮っても街が暗くならないような技術が使われているからだ。ビルの表面で受け取った太陽光を、適切な分だけ下へ反射させて送り込むことができるわけだ。  およそ十年ほど前、日本全国の都市部に住んでいる人間が「太陽不足」となり社会問題化した。数年後、当時流行っていた病気との因果関係が認められたことが発端となり、日本中の都市部のビルで急速にこの技術が適用されるようになった。巧妙なのは、この技術が使われているビルの表面では、計画的に太陽光を分散させているから、実質的な”光の反射量”にもかかわらず、それによって人々の目を射る心配が全くないということだ。空から降りてくる光を上手いこと調節しながら程よく街を照らしているので、季節にかかわらず、仕事から遊びにいたるまで人々のあらゆる営みがもっとも程よく輝いて見えるようになっている。  携帯の通知音が鳴った。通知を開いて確認する。ナオトから通信ゲームのお誘いだ。ナオトは高校時代からの友人で、二十六歳のいまになっても頻繁に遊んでいる仲だ。彼は俺以上のゲーム好きだから、週に一回以上はこうして誘いのメッセージを送ってくる。俺もいつもの習慣に則して、すぐさま絵文字とともに「オッケー」と返した。  風呂と食事を短く済ませた後、俺はナオトと共に文字通りゲームの世界の中にいた。  ゲーム機本体と無線でリンクされた二つの球体は、「浮揚装置」によって浮かびながら俺の手の中に握られている。モニターに向けられたその二つの白い球を通して、虚構と現実が融け合っていた。重武装した二足歩行の犬のようなキャラクターがこのゲームの主人公なのだが、その主人公と俺は、ほとんど同じ”現実”を見ていた。俺が頭の中で斧を振り回せば、画面の向こうでも斧を振り回すし、ジャンプで塀を乗り越えろと指示すれば画面上でも乗り越える。逆に、主人公のキャラクターが敵から食らったダメージも、俺が食らったような感じがある。もちろん、ゲーム機に最初からフィルターがかけられているので本当に痛みを感じるわけではないが。俺が球体に触れている間は脳の電気信号がゲーム機の電気信号と接続され、まさしく俺は主人公そのものとなり、ゲームをプレイしているというより「体験」している状態になるのだ。  このゲームのストーリーラインは「全てが機械仕掛けの王国が盗んだエネルギー覇権を犬っぽい見た目の主人公と猫っぽい見た目の相棒が奪還する」といったものなのだが、俺は主人公で、ナオトはその相棒をそれぞれプレイしていた。二人は先週の続きである「砂鉄の荒野」というステージから始めた。音声はコントローラー内蔵のマイクが拾っていた。 「あのさぁ。ミノルにちょっと相談があるんだけど」  ナオトはいつも以上に慎重に伺うような調子で話を切り出した。 「なに?」 「この前、仕事でけっこうデカめのミスをしちゃったんだよ。会社としてもそこそこダメージのあるミス。それで、同じ部署の女の先輩に会議室に呼ばれてさ。そこでガッツリ説教されたんだよ。最初は、『はい……はい……』って感じで落ち込みながら先輩の説教を聞いてたんだけど、だんだん、変な感情が湧いてきてきちゃって。いけないとは思いながらも、湧き上がる感情が抑えられなかったんだ。結果的に、俺……その先輩のことが好きになっちゃったんだよ」  俺の驚きをすぐさま反映して、操っている主人公は足場から落ちて死んでしまった。画面は再び最初の地点に戻った。落下時の浮遊感のせいでコントローラーを握る手は一気に汗ばんでいた。 「はぁ?」  彼が説明するところによると、その先輩は綺麗だしスーツが似合っているしで普段から気になっていたのだが、説教されたのが最後の一押しとなって、完全に恋に落ちてしまったらしい。先輩が懸命に自分に説き聞かせている姿が、逆に彼にとって魅力的だったという。もともと「おねえさん系」のしっかりした女性が好きだったから、その時はど真ん中を射貫かれたような気持ちになったとも。スピーカー越しでもはっきり伝わってくるくらい彼は照れていた。  前にナオトと恋愛の話をしたときに「自分を叱ってくれるような女性と付き合いたい」と言っていたのを思い出した。そういうタイプの女性がなかなか見つからないので恋愛シミュレーションゲームに助けを求めるしかないと冗談めかして話していたのも思い出した。当時はそういった男の主人公が複数の美少女たちと恋愛を繰り広げるいわゆる「ギャルゲー」といったジャンルのゲームがブームになっていた頃だった。一度俺も彼の家でプレイしたことがあったが、ヒロインたちは本当にそこに存在しているように話し、照れ、笑い、彼女たちが俺の手を握る時の滑らかさや温かさ、そばに近づいたときの女の子特有のいい匂いもリアルに感じられてとても驚いたのを覚えている。それだけでなく、ふとした瞬間の「そこにいる感じ」という微妙な現実感さえ感じられたため、これにハマってしまったら二度と現実の女性と恋愛なんてできないと、必死にナオトを引き留めた努力をしたものだった。 「そこで、恋愛においては敵なしのミノルさんに一つ聞きたいんだけど……年下の男が年上の女性に告白って、やっぱ変かな?」 「いや、そんなことないと思うぞ。別に年齢関係なく、女性は告白されたら嬉しいと思う。よっぽど見た目がアレじゃない限り。ナオトは別にブサイクじゃないし、むしろ年上からは可愛がられると思う。ただ、向こうからしたら、ついこの前自分が説教した相手が告白してくるわけだから、さぞかし驚くだろうね。それはそれでサプライズ感はあると思う」と言いながら俺は笑った。「それに、相手は二つ年上だろ? 年齢的なことを考えたら結婚を視野に入れた付き合いを求めてくる可能性も十分ありえる。……ナオトはその辺は?」 「いやいや! 結婚なんてまだまだ! ただちょっとお付き合いできればなーって思っただけで……」 「そっか。じゃあとりあえず、謝罪の意味も込めてご飯にでもさそってみたら?」  「結婚」という点においては、俺も同じだった。映画の撮影現場で知り合った二十歳のモデルの女の子と付き合い始めたばかりなのだが、交際期間や将来のことを考えずとも、「結婚」について聞かれたら俺もナオトと同様の反応をしていただろう。  二人で力を合わせた甲斐あって、ステージを新しく二つクリアした。ふとテレビの上の時計を見た。ナオトと通信を始めてからすでに一時間経っていた。もうそんなに経っていたのか。体感では十五分くらいなのだが。  次のステージに行く前にポイントを集計している時、ナオトが何気なく言った言葉が、なぜか俺にとってとても重要なことのように感じられた。 「そういや、盛谷駅近くに新しい娯楽施設ができたらしいよ。めっちゃ良い感じのやつだから今度行こうよ。カレンも誘って」  俺は一瞬、自分自身を訝った。その人はナオトと同じく自分にとってもっとも仲の良い親友であるはずなのに、その名前をとても久しぶりに聞いたような気がした。  ――またリアルな夢を見た。しかしそれを現実と思うにはあまりにもいつもの世界からかけ離れていた……。  天蓋からレースを垂らした大きなベッドが見える。豪奢の限りを尽くしており、見るからにただのベッドではない。その周りを囲って天から純白の雨が降り続けているかのように見えるレースには、いたるところに純金の装飾が散りばめられている。深まっていく夜の暗さの中で、揺らめく炎によってちらちらと光って見える様子は、まるで夜明けを待つ無数の星のようだ。  俺は招かれたのだ。だがベッドを前にして恐怖していた。  その上で誰が待っているのかを知っている。それ故に、最後の数歩がまるで捕虜が付ける重りを足首に付けているかのように重かった。  ……やっとのことでベッドの前まで来た。甘い香りがあたりいっぱいに立ち込めていた。頭がクラクラするような濃い匂い。レースには”その人”のシルエットがあたりの灯火で暴きだされている。  美しく、生命力に満ちた手が、ゆっくりと俺の方へ差し伸べられた。  一瞬のためらいの後、自分の手をその上に重ねた。そして、俺はベッドの上に誘われた。  シーツの上に座っている間は終始自分に向けられている目を見つめ返すことができなかった。俺の目は、”彼女”を覆っている薄い緋色のショールの上に落ちていた。  互いに言葉はない。音のない時間が二人の間を流れていた。  さっきまで俺を支配していた「恐れ」の一部が、いつのまにか「畏れ」へと変わっていた。だがそれでも”彼女”の前で体を委縮させて固まっていることしか出来なかった。  細かな金属がかち合うささやかな音を聞いた時にはすでに俺は抱かれていた。驚くほど柔らかく豊満な感触だった。背中へまわされる腕、胸を寄せるほどに形が変わっていくのが分かる乳房、一層強くなる香の匂い……俺いま、”初めて”女性というものを感じていた。  俺は”彼女”の柔らかく大きな腕の中で震えていた。  枕に頭を沈めて”彼女”を見上げた。一瞬だが、そこでようやく”彼女”の顔を見ることが出来た。折れ曲がって絡み合った闇のような髪が”彼女”の白い顔に影をつくりながら、俺の顔に向かって垂れ下がってきていた。気づけば、先ほど身に着けていた赤に黄を薄く滲ませたような色のショールは、もう”彼女”の肌を覆ってはいなかった。身に着けているものと言えば、動くたびに気品のある高い音を立てる金の装飾だけだった。首、腰、手首できらめくそれらは、炎の明るさに呼応して、”彼女”の内部から浮かび上がって来ているかのような高貴な輝きを、さらに眩しいものにしていた。女性の秘められた部分を見たことがない俺はいよいよ当惑の度合いを増し、どこを見ていいか分からなくなった。  思わず目を瞑った。  その時、初めて”彼女”は何かを口にした。  俺はその言葉に従った。というより、抗うことができなかった。  薄く目を開けた。  心の平穏が打ち破られるような、誘いこまれるような濃い色気。上から彼の動きを支配している豊穣な腰まわり。柔らかさを帯びながら引き締まっている胴。大胆さと繊細さをもっとも絶妙な割合で融和させた、大ぶりな乳房。そして、俺を見下ろしながら、溢れんばかりの愛情をしたたらせている顔。  俺はその時はじめて目の前の女性が美しいことに気づいた。  放心して眺めていると、”彼女”は笑みを浮かべながら顔をゆっくりと近づけ、俺の頬を撫でた。十代の少女のようにきめ細やかな顔に浮かんでいるのは、まぎれもなく慈悲の笑みだった。  自分に対するこの行為、この感情が、俺にとってとても意外だった。俺は”彼女”を愛の温かさから最も遠い存在だと思っていた。だから、こうして肌を合わせて”彼女”の美しさを認めても、その愛が本物であるのかどうか信じられなかった。  いまにも互いの鼻が触れそうな距離で、二人の瞳は繋がっていた。”彼女”の金のネックレスが胸に触れて、重さが伝わってきた。  大きな瞳を通して力の塊のようなものが流れ込んできているようだ。”彼女”のその目は、そのまま宇宙の闇に通じているのかと思うほど黒が深く、限りない奥行きを感じさせた。  次第に溢れるような熱を体中に感じ始めた。頬も、腕も、脚も、腹も熱い……特にその下は痛みを感じるほど熱を一か所に集めていた。体の中ではマグマのようなものが何度も巡り、その度に天にも昇るような心地よさを感じ、心はふわりと浮かんで”彼女”に融け込んでいきそうに思われた。  しばらく”彼女”は視線を外すことなく俺の体を優しく撫でた。すると、突如”彼女”の中の何かが頂点にまで高まったのか、眉は美しく曲げられて、全身全霊で覆いかぶさるようにして俺の唇にキスをした。  ”彼女”と唇を重ねた瞬間、初めて愛の存在を知り、初めて愛とは何かを知った。乾き切った荒野に清い水が流れて潤っていくように、次第に空の心が満たされていく――。  電車の手すりにつかまりながら、瞬きのたびに移り変わる景色を眺めていた。俺が見ている世界はまだフワフワしている。  今日は祝日の昼間ということもあって座席は自分と同じ若い人たちで埋め尽くされていた。みんなが”お出かけ用”の格好をしていて、俺と同じで見るからにこれから遊びに行くといった出で立ちだった。  待ち合わせ場所はいつもどおり。盛谷駅の銅像前。今日はその盛谷駅の近くにある「ムーンドゥス」という最新テクノロジーを結集した体験型レジャースポットに行く待ち合わせをしていたのだ。最寄り駅から十分程度なので近場でちょうどよかった。俺とナオト、それからカレンの三人の予定が合うことが最近なかなかなくて、そろって遊びに行けるのは数か月ぶりだった。カレンにメッセージを送ってOKをもらった時は、高校時代から何度も一緒に遊びに行っているが素直に嬉しかった。なぜだか数年ぶりに彼女に会うような感じがして胸が躍っていた。  電車がゆっくりと速度を下げ、硯川駅に停車した。この次が、盛谷駅だ。  まもなく電車は音もなく滑るようにして走り出した。  あの夢を見てからというものの、何かがおかしい……。どこがどうおかしいのか、はっきりと言えるわけではないが、自分の心の中といま見てる世界がきちんと結ばれていないような感じがする。それどころか、ほんの少し食い違っているような気がして、違和感がある。数日前のあの日、俺が大昔の人間となって――なぜか上半身裸の少年だったが――ものすごいオーラを放った謎の美しい女性に抱かれるという、全く身に覚えのない夢を見た時からだ。  その日の朝目覚めてからというもの、まるで映画館で我も忘れるほど映画の世界にどっぷり浸かったあとのような、自分の心の世界と外の世界があいまいになって呆然とする状態がずっと続いている。  自分なりにいつも通り生活をし、いつも通り撮影現場でも芝居に集中していたつもりだが、外側からそうは見えなかったようだ。共演者のベテラン俳優の方に、現場の人気のないところで「大丈夫? 何か悩んでいることがあれば全部打ち明けて」と言われた。そこで初めて分かったのだが、自分はあの夢に相当心を揺さぶられてしまっているようだ。  車内にアナウンスが響く。盛谷駅に着いたようだ。ワンテンポ遅れて俺も他の乗客と一緒に出た。  集合場所に着くまで、この数日の間何度も脳裏に浮かんだ、あの朝のワンシーンを振り返っていた。  夢から目覚めたとき。目の周りがぐっしょり濡れていた。枕もヒヤリとしていた。指で目元を拭う。そこでようやく自分がさっきまで涙を流していたのを思い出した。  その時の記憶は何度も思い出されて確かめられているから間違いない。その涙は決して悲しみからではなかった。涙の跡を袖で拭っていたときに心に残っていたのは、遠く、深いところからやってきた幸福の余韻だった。  ……待ち合わせ場所が見えてきた。尻尾を高く掲げた巨大な猫の銅像の前にはすでに誰かがいた。ナオトだ。待ち合わせの時間よりまだ十分もある。  俺はあえて遠くから高校時代にナオトが呼ばれていたあだ名で呼びかけた。  ナオトは照れと気まずさを合わせたような面持ちで振り向いた。 「いやそのあだ名はやめろって」  俺が彼に呼びかけた名前は当時流行っていたゲームの主人公の名前で、ナオトがあまりにゲームオタクなのでクラスメートがからかって付けたものだ。これ以外にも、出会い頭に毎回二人にしか分からない共通言語のようなもので挨拶するのが暗黙の”礼儀”になっている。 「めちゃくちゃ晴れたな。今日から本格的に夏って感じ」  ナオトはそう言って雲一つない青空を見上げた。彼の服装は、いかにも梅雨が明けたばかりの今日にぴったりな格好だった。いま彼がハマっているゲームのキャラクターが躍動感のあるポーズでデカデカとプリントされたTシャツを着ていた。その下はベージュの半ズボンに青いスニーカーといった出で立ち。二十六歳にもなってキャラクターTシャツ一枚と半ズボンという格好は、普通ならば「ダサい」「ファッションセンスがない」と言われて恥ずかしい目に合うのがオチだが、ナオトの丸っこい体のフォルムから漂ってくる持ち前の愛嬌のおかげで、絶妙なフィット感があった。  ーー待ち合わせ時間から二十分が過ぎた。 「カレン、思いっきり遅刻だな」周囲を見渡しながら俺は言った。「まぁ今に始まったことじゃないけど」  足踏みしながらナオトと一緒に人ごみの奥を眺めていると、明らかに段違いのスピードでこっちへ向かってくる姿があった。走り方で分かった。カレンだ。 「ごめんごめんごめん!!」  二人の前で急ブレーキをかけるやいなや眉毛を八の字にして手を合わせながら謝っているカレンは、その滑稽なポーズにもかかわらず、というよりその姿が一層彼女の美しさを際立たせていた。オーバーサイズの淡い灰色のTシャツの袖をまくっており、そこから見える白い腕に初夏の強い日差しが反射して眩しい。くるぶしの上までの青いデニムパンツと、その下は、底の厚い黒いサンダルを履いていた。季節に見合ったその服装は、カレンの爽やかな色気と見事に合わさっていた。  ようやく揃って目的地に歩き出したのはいいが、ナオトとカレンが並んで歩くとナオトの体形とファッションの無頓着ぶりが余計に浮き彫りになった。俺はそれを見て苦笑した。まぁ、これはいつものことなのだが。今日はやけにそのコントラストがおもしろく思える。  三人は目当ての体験型施設に行くために駅前のビルの中へと入っていった。  「ムーンドゥス」の館内に響く自動音声に案内されて見たのは、ただの巨大な真っ黒い部屋だった。全体が円筒状になっており、上から見下ろすときれいな円形に見える。出入り口からは真っすぐ一本の通路が伸びているので、鍵穴のような形にも見える。  入口の扉が閉まった後には最低限の灯りしか残らなかった。ほとんど真っ暗闇な空間に取り残された三人は、口々に動揺の言葉を漏らした。部屋に入る前にAIに説明を受けた通り、俺が「ムーンドゥス!」と呼びかけると、三人の周りにある壁が光を放った。かと思うと、先ほどまで真っ黒だった壁には地球上のあらゆる多様な大自然が次から次へと現れた。その映像は前面からだけでなく、上下、左右に加えて三人の背後にも映し出されていた。  スクリーンの境目の様な物は見あたらない。完全に”景色”が三人を包んでいた。その映像のあまりの綺麗さは、海や山々や峡谷の大自然が本当にそこにあるように感じさせた。  目にもとまらぬ速さで世界中を旅するように、大自然は休む間もなく前から後ろへと流れていった。すると、視点はものすごい勢いで上昇していき、地上を離れ、雲を越え、成層圏を越え、ついには、三人は地球を見下ろしていた。  その時、部屋のどこかから女性の声が響いた。透き通るような美しい声だ。 「今日はどちらへ行かれますか?」  三人は唖然として口々に「すご……」と呟いた。  先に我に返ったカレンが「どこに行く?」と二人に問いかけた。しばらく話し合った後、彼女は「じゃあ、アマゾンのジャングルで!」と元気な声を部屋いっぱいに響かすように言った。  視点は再び猛スピードで動き始めた。地球の引力に引っ張られるように、南米大陸へ向かって降下していった。直後に現れたのは一面緑の世界。そこはまぎれもなく俺たち三人が頭の中で思い描いているようなジャングルだった。三百六十度、どこを見渡しても種々雑多な植物が入り組んだ複雑な世界だ。  再び三人は驚きの声を上げた。最初にそれを言葉にしたのはカレンだった。 「ちょっと待って待って! これ、すごくない?」  俺たちはほとんどすべての感覚器官で「世界」を感じていた。蔦を手に取って引き寄せられそうな立体感とその質感、ジャングル内に響き渡る未知の動物たちの鳴き声、雨が上がった後の草原のような濃い植物の匂いと土の匂い、まとわりつくようなジメジメした蒸し暑さ……。 「これもう、本当にアマゾンにいるのと同じだよ」  ナオトはあたりの空気を嗅いでそう言った。 「本当だな」俺は壁に向かって歩きながら「本当にジャングルの奥に進んでるみたいに映像が動くし」と言った。  そう俺が言うのを聞くや否や、カレンは雑草を踏み分ける音を立てて一人で大きな川のある方へと駆けて行った。俺は冗談っぽく「ちょっと待てよカレン! 迷子になるぞ!」と言いながら彼女の姿を追った。ナオトもそれに続いた。  三人は世界中を旅した。思いつくままに、地名や国の名前を「ムーンドゥス」へ呼びかけ、その通りの場所を、その場にいながら”体験”してまわった。世界一周旅行に行ったような満足感が味わえた。エジプトのピラミッドの壮大さや砂漠の砂の熱さ、グランドキャニオンの果てしない景色、サングラッチェ大聖堂の天井一杯の絵画、アメリカで一番高いビルであるプリンス・ビルディングの頂上からの足もすくむような高さ。  そのあと、何を思ったかカレンは「ムーンドゥス」に「噴火してる火山が見たいんだけど」と呼びかけた。すると、火口が真っ赤に染まり溶岩が吹きあがる火山が現れた。カレンは火口の近くまで行き、俺とナオトに向かって「見て見てー! 本当に噴火してるよー!」と手招きした。俺はカレンの隣に行き、灼熱を浴びながら赤い飛沫を飛ばす火口を見下ろした。これ以上近づいたら焼けてしまいそうだ。  その時カレンはすかさず俺の背後にまわり「行ーけーよー」と言いながら俺の背中を押す真似をした。それに対してすぐ俺も「やーめーろーよー」とされるがままになったが、すぐに真顔になって「いやこれは本当にやめろ!」と言った。 「いいじゃん、本当に落ちて焼けるわけじゃないんだから」と言ってカレンはいたずらっぽく笑った。  「それでも恐いわ!」  ビビりの俺は思わず叫ぶようにして言った。  カレンと俺はまだ高校時代からの”ノリ”を忘れていなかった。もちろんナオトもそうだった。傍から見て子供っぽく見えようとも、出会う度にこれをすることが三人の仲の良さの秘訣だった。こういった積み重ねのおかげで、社会人になってから感じるようになった加速度的に進みゆく時間の流れの中でも互いの絆を繋ぎとめることが出来ていた。 「これってもしかして、宇宙にも行けるのかな?」とナオトが言った。 「ええ~。さすがにそれは無理じゃない?」とカレンが答えた。 「一応聞いてみようよ」と俺が言い「ムーンドゥス!」と呼んだ。  すると再び、綺麗な若い女性の声が答えた。 「はい、なんでしょう」 「宇宙にも行けるの?」 「はい、もちろんです。どちらに行かれますか?」  カレンは間髪を入れずに、 「じゃあ月で!」と答えた。  マグマで埋め尽くされたあたりいっぱいのおどろおどろしい映像は、徐々に切り替わっていき、真っ黒い空間に浮かぶ無数の星が現れた。そして足元から目の届く先まで、コンクリートのような灰色の陸地が続いていた。それ以外は、無限に奥行きを感じさせる闇だ。俺たちは確かに月に来ていた。『でも大気は? 重力は?』と俺は思った。思い切り息を吸ってみた。空気は普通にある。膝を曲げて飛んでみた。白い砂埃を上げながら、フワリ、と体が風船のように軽く浮かび上がったかと思うと、足の裏に経験したことがないほど優しい感触を感じながら着地した。 「すごい! 宇宙服なしで月面旅行してるじゃん!」とナオトはウサギのように飛び跳ねて前へ進みながらそう言った。 「どんな技術だよこれ! 地球にいながら月に行けるなんて。……今度からここに来れば一日中ずっと遊んでられるじゃん」と俺は空中で三回転ジャンプを決めた。  最後に三人は宇宙遊泳をして無重力の空間を楽しんだ。ナオトと俺は互いの体を押し合い、カレンも俺と”ハイタッチ”のように両手の平を双方から叩き合って、延々と漂っていく感覚を味わった。彼らの周りには太陽系の惑星がきらめき、中でも金星は一際明るく輝いていた。上下左右の区別なく遊び回る彼らにとって、自分たちがいまどこにいるのか知るための目印を示してくれていた。  ――三人は同じビルのレストランで昼食をとった。 「うわさには聞いてたけど、やっぱすごかったな」と俺が言った。 「想像してたより十倍はリアルだった。もうほとんど現実」とカレンが言った後、 「寝起きドッキリみたいに寝てる間に連れていかれて、あそこで朝目が覚めたら、普通に現実だと信じちゃいそう」と返したナオトの言葉に、他の二人は吹き出した。  三人は口々に一日で世界一周をした感想を言い合った。  話の途中で、ナオトは突然「う~ん……」と唸り始めた。何やら考え込んでいるようだ。彼はこういった驚異的な最先端の科学技術が大好きなので、現代文明がいかに進歩しているかをいつものごとく饒舌に語り始めるだろうと思い、心の準備をした。  俺が「どうした?」と聞くと、彼は意外にも現実離れしたことを言い出した。 「……もしかすると僕らが五感で感じてるこの現実も、ああいう機械的なもので映し出された世界なのかも」 「んなアホな」 「でもこの現実が本物だとどうやって証明する? この世界は『とある目的』のためだけに作られた狭い疑似の世界で、並行世界にしても、地球外生命体にしても、僕らがここ以外の他の世界を知りたいと努力しても容易に辿り着くことができないのは、『その目的』に支障が出るからじゃないかな。つまり、実験をしてるんだと思う。誰かがこの世界の外で僕らを観察していて、現実というステージ上でどういう動きをするか、当初の目的を達成できるかどうかを見てるんじゃないかな。それをしてる人たちは未来人なのかもしれないし、まったく違う別の生き物かもしれない。分からないけど、たぶん彼らは、僕らが想像もできないようなスーパーハイテクノロジーを持ってるんだと思う。たくさん議論を重ねて、アイデアを出し合ったりして、その上で最高の技術を集結させた機械で超絶リアルなホログラム世界を投影させて、そこに僕らを住まわせたんじゃないかな。だから何かのきっかけでこの現実の外へ出られたなら、その時はじめてこの世界が拵えられた理由やそれぞれの人が生まれてきた理由が分かるのかもしれない」  それまで黙って聞いていた俺は、ナオトの言葉と共にグラスに注がれた水をゆっくり飲み込んだ後、こう聞いた。 「じゃあこの世界はテレビゲームみたいなものってこと? それで俺らはそのゲームのキャラクター? ……どっかで誰かがコントローラーで操作してるのかも」と苦笑しながら言った。 「あくまでこれは僕の仮説だけどね。でも、もしこの仮説が本当だったら、このゲームを設計したり、テストしたり、バグを直したりしてる存在がいるかもしれない」 「もし私がそんな人たちと話す機会があったら『ちょっとバグが多すぎるんでパッチあててくれませんか?』って、プレイヤー視点のアドバイスをしてあげるよ」とカレンは冗談っぽく言った。その後、自分の言葉の語尾に繋げるかのように「あー。ナオトのハンバーグきたよー」と言った。  三人の料理が運ばれ、先ほどまではしゃぎまくっていたせいでよっぽど腹が減ったのか、最初の数分間は各々が頼んだ料理を黙々と食べていた。  その後の会話の口火は俺が切った。   俺はカレンに、近況報告ついでにナオトの社内恋愛の件を話した。俺がアドバイスをして今度デートに誘うことになったというのも含めて。  それに対してナオトは仕返しと言わんばかりにカレンへこう言った。 「そういえば最近、新しい彼女ができたってよ」指先は俺の方へ向いていた。 「またぁ!?」  と、カレンは驚いて大きな声で返した。 「それが、今度はタレントさんみたいだよ」 「え! ついに芸能人と付き合えたんだ!?」と以前から俺の「俳優になったら芸能人と付き合う」という夢を聞いていたカレンは、まるで自分が夢を叶えたように嬉しそうに言った。「女優?」 「いや、モデルの女の子。いま撮影してる映画の現場で出会った」 「ミノルのことだから、さぞかし美人な彼女なんだろうな~」 「なんだよそれ」 「だってミノルは本当に面食いなんだもん」  顔が熱くなってくるような気がして「そんなこたぁない」と言いながら一口に切ったステーキを急いで口に放り込んだ。  事実、そのモデルの女の子はとびきりの美人だった。つい最近、二十歳になったばかりで、シワやシミ一つない輝くような肌と、日々丹念に手入れされている流れるような美しい髪に俺は心を掴まれたのだった。  今度は俺がカレンに聞いた。 「カレンはいま彼氏は?」 「いないよ~。前にあの彼氏と別れてからずっと。でもいまは仕事が楽しいから、恋人探しはまだ先でいいかなぁー」  カレンが以前付き合っていた彼氏は合コンで出会った男で、最初こそ普通に付き合っていたものの、一か月ほど経った頃、突如として毎回デート代をケチろうとする吝嗇野郎に豹変したらしい。その後、俺とナオトに何度も相談した後、結局二か月程度で別れることになった。  三人は食事を終えた後、満足感に浸りながらナオトとカレンは再びさっきの「ムーンドゥス」の話に戻った。  二人の会話が途切れた時を見計らって、俺は二人にこう聞いた。 「ねぇ、さっき行った所で思い出したけど」慎重に選び取るような調子で言葉を続けた。「これまで、現実としか思えないほどリアルな夢って、見たことある?」 「うーん、どうだろう。……大抵、夢を見る時って、それが現実だと思ってるしなー」 「いや、そういう次元じゃないんだ。なんていうか……」 「ヘフッ!!」突然、レストラン中に爆音が響いた。カレンだ。  俺は即座に彼女に向かって言った。「クシャミの音がデカすぎて何話そうとしたか忘れたわ」  それを聞いてカレンは口を押えて息を殺すようにして笑った。公共の場でクシャミの音を盛大に響かせてしまったことへの恥ずかしさとこみ上げてくる笑いとで感情がぐちゃぐちゃになっているのが外側から見ても分かった。そして、お得意の引き笑い。  カレンのクシャミは男がやるみたいに思い切りがよくて低音がきいてるから、その個性の強さゆえに高校時代から一種の”持ちネタ”のようになっていた。彼女がクシャミをする度に俺が「大型犬の威嚇ですか?」とか「空手家の方ですか?」とかツッコミを入れるのが恒例のお決まりパターンだった。  まだ笑っているカレンの顔を覗き込んで、俺は「お話、続けていいですか?」と聞いた。  笑っている目元を維持しながら彼女は頷いた。 「それで、その『現実にしか思えないリアルな夢』って話だけど……もう一つの人生を生きてる感じっていうか……ちゃんと過去があって、その過去によって自分というものが出来上がってて、その意識が心のどこかにちゃんとあって、しかも、『こういう未来が訪れるだろう』っていう漠然としたものがちゃんと自分の選択の裏側に存在しているのが分かる。そういうことが自然と心に浮かび上がってくる感じ……。数日前にある夢を見たんだけど、今の気持ちとしては、それが数日前の、直近の過去に体験したことのようにも感じるし、はるか大昔に体験したことを夢の中で思い出したようにも感じるんだ。それくらい、その夢はリアルな実感があった」  ナオトは怪訝な顔で聞いた。 「どんな夢を見たんだ?」 「……たぶん、エジプトとかメソポタミアみたいな雰囲気だと思うんだけど、俺は古代文明の人たちのような格好をしていて、自分がいた部屋はとても広くて、土で出来ているみたいな色合いだった。その部屋は、イメージだけど、エジプトの王室の寝室といった感じの雰囲気だった。ベッドがとにかく豪華絢爛で……そこで、とても位の高そうな、とても綺麗な女性と出会ったんだ」  そう俺が言った途端、カレンが食いついた。 「え~! ベッドで綺麗な女性と何をしたの!?」 「まぁ落ち着け、これから話すから。……それで、俺はその女性の顔を見た時、あることを感じたんだ。俺はその女性のことを知らなかった。だけど、知ってたんだ」 「え? どういうこと?」   カレンは分かりやすく首をひねりながら言った。 「そのとき出会った高貴な女性が誰だったのかといま聞かれても分からない。思い出そうとしても思い出せないんだ。でも、その時は、知っていた。ベッドの上にいた時の俺は、彼女が誰かが分かってたんだ。だから、恐かった。震えてた。こういったことが実際にこれまでの俺の人生に起きたとは到底思えない。でも、朝起きてから最初に夢の世界を思い出した時、いろんな感情がじわじわと心に広がったあの感じが、本当に体験した時の感じと一緒だったんだよ」  そのあと、俺は夢で起きたことを二人に話せるだけ話した。  レストランを出た三人は、自然豊かな公園と広大なスポーツ施設、多様な飲食店が一つになった巨大な複合施設を訪れた。敷地面積としては公園がほとんどを占めているので、一概に「神木公園」と呼ばれている。  青色と緑色を混ぜたターコイズブルーのような色を遠くまで澄み切らせたような、雲一つない快晴の空の下、三人はコートでバスケットボールをして遊んだ。俺は中学時代にバスケットのクラブに入っていたので、どうにかしてボールを取ろうとする二人を鮮やかにかわした。二人があんぐり口を開けて見上げる中、何度もレイアップを決めた。  その後、サイクリングをしようということになり、また施設内に戻って自転車を借りに行くことになった。その道中、高校生くらいの若い女の子二人が俺のところへやってきた。最近話題になったいくつかの映画やドラマに、サブキャラとしてではあるが出演したのを知っていたようで、俺を見つけて興奮していた。彼女たちは「結木ミノルさんですよね!」と、ほぼ絶叫に近い声で握手を求めた。  いつも通り俺は爽やかに努めた。彼女たちの顔をしっかり見ながら「ありがとう」と言って握手した。  来た時よりも数倍興奮が倍増した彼女たちは、キャアキャア叫んで帰って行った。  その後すぐにカレンは俺の肩にもたれながら、「モテる男は違いますなぁ~!」とからかった。  新緑に燃え盛っている木立の中を、三人は自転車で走り抜けていく。脇や首もとに柔らかな風が入り込み、バスケットボールでかいた汗を乾かしてくれる。日は傾きかけ、木々の間から差し込む光は丸みを帯びていた。三人とも良い気分だった。   左右に屹立している木立が途切れているところに、ゆったりとしたカーブが見える。そこを左に曲がると、芝生と花畑が遠くまで続いているところへ出た。景色が開け、今までモザイクのように淡く見えていた夕暮れの空がはっきりと目に入った。  空を焼き尽くそうとしている炎のような夕空。遠くでは赤が圧縮されて血のように見え、過激な印象があるのに、どこか懐かしい感じがした。その後の一瞬、とあるイメージが脳裏をよぎった。”星の表象”。中心から外へと向かって、とげとげしい鋭角をあたりに広げている。とてもとても古い感じがする。でも、それでいて新しい感じもする……。数日前に見た八芒星のシンボルがなぜ、いま蘇ったのか。撮影現場に行く前の車内で最初に見た時に感じた既視感といい、一体何なのだ。自分と何の関係があるのか。疑念はいよいよ俺の中で膨らんでいったーー。  空を見上げて激しく動揺した。あまりの衝撃に、脳ミソが傷つけられたような気すらした。  俺は見知らぬ世界にいる!!  見たことのない部屋、見たことのないベッド、そして、見たことのない巨大すぎるビル群と、見た目は「東京スカイツリー」に似ているが、それよりはるかに高く大きい塔……。  いま、空の色を見て、ここは俺が今まで生きてきた世界ではないと確信した。  晴れた時の空の色は、もっとこう、原色に近い色だったはずだ。青にエメラルドのような緑が混じった空なんて、一度も見たことがない。泥酔して目覚めたら違う部屋にいるなんてレベルじゃない、海外へ旅行した記憶が抜け落ちて、起きたら知らない外国のベッドなんてレベルでもない……俺はいま、まぎれもなく、”違う世界”にいるのだ。  夢だと疑ってあらゆることをやってみた。ほっぺたをつねってみたり、思いっきり冷たい水で顔を洗ってみたり、自分自身に「これは夢だ!」「覚めろ!」と言い聞かせてみたり、目を瞑って深呼吸してみたりしたが、俺の周りの”現実”は、堅固な石のようにびくともしなかった。  何より気持ち悪いのが、”中”だ。俺の体の中に、俺がもう一人いるような気がするのだ。二人の自分が同時に一つの認識しているような感覚――。驚愕に打ちひしがれている自分と、冷静な自分。もう一人の俺は、何年もこの世界で生きてきたかのように、異様な親密度でこの世界を見ていた。今朝もいつも通りの平凡な一日に過ぎないかのように、心は波立たず、実に平静だった。そのギャップに困惑を深めた。  先ほど洗面所で自分の顔を見たが、まぎれもなく俺自身だった。昨日の朝と何も変わっていない。  その洗面所の位置や、寝室、キッチンなどの間取りはもちろん、マンションの全体から細部まで知り尽くしている自分と、他人の部屋にいるかのように違和感に満たされている自分。そして、このベランダから見える街の景色。俺が知っている東京と比べると、”こっちの東京”は、ずいぶんと先を行っていた。まるで俺の年齢はそのままで、時間だけが進んだかのようだ。俺はいま、未来都市を見ていた。  強く日差しが照りつけているベランダから戻ろうとした時、足元がふらついた。どこかで感じたことのある、頭の揺れ。焦点がぶれる。  近くにあった手すりに掴まった時、「黒い作業服の男」を思い出した。  全身が黒に覆われている。  胸には、金色の星と蛇のシンボル。  彼の上には、真っ赤な空。  どこを見渡しても無人の世界。  そこで、彼に言われたこと……。 「『現実』は、君が感じているもの一つだけじゃないんだ」……。  背筋に悪寒が走った。俺は、自分がいまどこにいるか、分かった。  もう一つの世界。パラレルワールドにいるのだ。  頭の中を整理しようとした。  自分の中に二重の意識があるということは、もともとこの世界で生活している”並行世界の自分”の体の中に、いまこうして考えている”自分”が何らかの理由で入り込んだということか。だから、全く身に覚えがないこっちの世界の過去と現在についての知識が頭に入っているというわけか。さっき「ツリー・オブ・ライフ」という名前が頭に浮かんだ時、なぜ建てられたのか、この塔があるおかげで街と人々の生活はどれほど恩恵を受けているのか、そして、このマンションへ引っ越して来た時、ベランダからこの塔を初めて見上げて何を感じたのか、これらのことが一緒に思い出されたのは、そういうことだったのか。  あの時……自分は黒い作業服の男に「元の世界に戻してあげる」と言われたはずだ……。そうだ。確かに、あの赤い不気味な世界から帰りたい一心で、男に言われたとおりに目を瞑った。そしてだんだんと眠くなっていき、十秒経った後、意識が飛んだのだ。  しかし、俺がいまいるのは「元の世界」などではなく、考えうる限りでもっとも理想的な人生を送っている、「もう一人の俺の世界」だった。  それを認識したと同時に、底から興奮が湧き上がって来た。  何と言ってもこの世界にはーー。  ベッドの上の携帯が鳴った。  おそるおそる手に取り、画面を見た。誰かからメッセージが来ている。 「今度三人でミノルの家に集まるのっていつだったっけ? 忘れちゃった」  ーーカレンがいるのだから。手を伸ばせば届く、その距離に。  いま俺が見ているもの全てが現実だとは思えなかった。あらゆる現象が俺の認識になじまず、はねつけられた。  「盛谷」「硯川」? そんな地名は聞いたことがない!   そもそも俺はいま、憧れであった東京に住んでいるのだ!  ベランダから見える超発展的な街並みや、部屋の空調システム、それから送迎バスの無人自動車! どこを見ても、何十年も先を言ってるとしか思えない「未来の超テクノロジー」に満ちていた。  俺の身に起きていることは何一つとして理解できず、困惑を極めているが、「まだナオトとカレンは傍にいてくれている」という事実はなにより俺を有頂天にさせた。  今日の十四時、二人は俺の家へ遊びに来る、ということになっているらしい。  俺は冷静にその事実を捉えようと努めた。記憶としてではなく、概念としてではなく、本当に彼らが目の前に現れるのだ。大学時代以来、俺の中で二人は観念上の存在となっていた。現実を離れて俺の頭の中だけの存在となったナオトとカレンを自由に遊ばせていた。楽しい記憶を再現する時や、もし社会人になってから彼らと会ったらどんな感じなんだろうと想像する時などに。「時が戻ればいいのに。そうすればまた三人、高校生の時のような仲良しのまま、一緒に大人になれるのに」と、祈りのように何度も願った。  時は戻らなかった。だがいまでは……。  時計を確認した。あと十五分もすれば玄関の呼び出し音が鳴るだろう。  キッチン前の机に座り、ぎこちない手順で淹れたコーヒーをちびちび飲んでいた。味は何も変わらない。   携帯のスケジュールやバッグの中に入っていた台本らしきものを見て分かった。どうやらこの世界の俺はすでに俳優としてデビューしており、しかもある程度成功しているようだ。台本にはとある役名に丸が付けられており、そのセリフにはところどころメモが書き込まれている。それを読む限り、メインキャストとまでは言わないまでも、物語上はそれなりに重要な役どころのようだ。その事実が、かえって夢のようにふわふわした気持ちの俺に現実味を与えた。  渇望していた夢がついに叶った。たとえ理解を超えた超常現象的な形であれ、何年も願い続けた理想が成就したのだ。確かに心の中で嬉しさは感じている。だが、自分でもどうすればいいのかが分からない。このあとどうなってしまうのか、次の一ページが分からない。二人と会った時、自分は冷静でいられるのだろうか。二人は、俺の想像しているナオトとカレンなのだろうか。  その時、玄関の呼び出し音が鳴った。俺の胸は騒いだ。  おそるおそる玄関へと歩いて行き、ドアを開けた。  その瞬間、違和感は吹き飛んだ。  彼らは、俺が思い描いていた通りだった。二十歳だった六年前のあどけなさは影を潜め、二人とも大人の顔になっていたが、その顔はまぎれもなく俺の知っているナオトとカレンだった。緊張は一気にほぐれた。  ナオトに続いて玄関へ入ってきたカレンと、間近で目が合った。その瞬間、俺の心臓は大きく飛び上がった。そして彼女がすぐ横を通り過ぎた時、俺はそこではじめて彼女の全身を目に納めた。  デニムのワンピース。その色は、さっきベランダで見た空の色よりもずっと濃い青だった。気持ちの良い色だ。そして腰回りは、くびれを強調するように、同じくデニム素材のベルトでキュッと引き締めていた。  背中を見送る俺は、この服装が彼女の愛らしさを何倍にも増していることに感動していた(この「愛らしさ」には、自分の知らないところですっかり大人の女性になっていたことへの不思議な感慨深さも含まれていた)。俺が知っているカレンは、そんな大人っぽいオシャレな服を着るような女の子ではなかったからだ。  我に返った俺は出来るだけ手際よく見えるように二人を招き入れ、キッチンで飲み物を注ぎ、リビングのソファでくつろいでいる二人の前のテーブルに置いた。  ナオトは俺が同じソファに座るか座らないかのタイミングで、いきなり「あ、この前話した女の先輩と付き合うことになった」と言い出した。二人はほとんど開口一番での交際報告に驚きの声をあげた。  三人の対戦ゲームの準備をはじめつつも、その後に続く会話は、自動的に「ナオトはどうやって先輩の心をつかんだのか」という話になった。カレンからの質問攻撃を浴びて一通り話し終わった後、彼は自信たっぷりの話しぶりでこう言った。 「いままで僕はゲームの世界以上に楽しい世界はないって思ってた。ゲームの世界に入りたい、そこに住みたいと思ってたほど。それは、恋愛ゲームでもそうだった。だから、いつも恋愛ゲームみたいな恋がしたいと思ってた。それが僕の理想の恋愛になってた。でも、最近ようやく気づいたんだ。恋愛ゲームじゃ、何度フラれてもまた女の子と出会うところから始められるけど、リアルでは当然そうはいかない。だから逆に現実世界での出会いを大切にするようになったよ。そうすると、出会いってのはその時々に一度きりの必要・必然があって起きるものなんだっていうことに気づけたし、何かのきっかけで出会った人のことを、好きだって気づいた時は、そのタイミングで思いを伝えなきゃって思ったんだ。で、真剣に恋愛に向き合って感じたのは、当たり前かもしれないけど、どれだけ技術が進歩してゲームの世界と現実の壁が薄くなろうと、本物の恋愛が一番なんだなって。やっぱり現実が一番なんだなって」  キャラクターを選びなおして次のラウンドに移行するときに俺はその言葉を聞いた。俺はテレビ画面を見つめながら呆然としていた。  この世界のナオトは、カレンと険悪な雰囲気は微塵もなく前のように仲の良いままであることにまず驚いたのだが、俺を差し置いていつの間にかカレンを奪っていったナオトが(少なからず当時からそう感じていた)、俺に恋愛について堂々と語っている! それも、「目の前の現実の恋愛が大切だ」といったことを! だが俺は不思議と怒りは感じなかった。このナオトは”俺の知っているナオト”ではないという認識が働いたからなのかどうかは分からない。  一時間半ほどゲームに熱中した後に三人が小休憩を入れている時、ナオトの携帯が鳴った。  彼はそれを確認するや否や興奮しながら「先輩からだ! 十八時からデートだって!!」と叫んだ。スマホを握りしめた彼はそのまま「ごめん! 今日は抜けるわ!」と言いながら玄関を駆け抜けて行った。バタンッ! と勢いよくドアが閉まる音が聞こえた後に残されたのは、テレビのスピーカーから聞こえてくるゲームの楽しげなBGMと、俺とカレンの間にある静寂だけだった。  二人きりになった。鼓動は早まり、カレンとの距離の近さが俺の思考を脅かした。  カレンは何事もなくゲームに没頭していた。時折、画面に向かって「とうっ!」「あれっ?」「なんでなんで!?」という言葉を漏らしていた。  俺とは違い、ナオトが抜けたことを一切気にしていない様子だった。  ゲームを介しての会話はかろうじて出来た。だが、面と向かって話せる自信がない。俺の心の平静は崩されていた。再び高校生のころのように、何のためらいもなく、何の隔たりもなく、言葉を交わせていることに、ほとんど奇跡のように感じていた。  たまに、ちらちらとカレンの方を見た。そのたびに全身が熱くなっていく。  これじゃまるで学生の恋愛じゃないか。  俺は高校時代の自分に戻ったような気持ちで彼女を見ていた。  こんなにちゃんとカレンの顔を見るのは、いつぶりだろう?   内側に感じるもう一人の俺の記憶を辿ってみた。この世界の俺も、元の世界の俺も、何がこの美しさを裏付けているのかをよく知っていた。目、鼻、口、眉、肌……それらが彼女の内面を、少ない言葉で多くを語っていた。「カレンはこの世界でも美しい」その事実が俺を心底安心させた。彼女はこの世界でも暗雲を払うような明るさで人を照らしていた。物怖じせず、ノリがよく、そして、誰よりも優しい。美貌に対して、笑い方やクシャミが下品なのをツッコまれるところさえ、俺が知っているカレンと同じだった。  この世界の数日ほど前に、カレンとナオトと俺の三人で遊びに行ったときも、公園のサイクリング場で転んだ小さな男の子に駆け寄って優しくなぐさめていた。泣きじゃくる男の子の前でかがみ、視線を同じ高さにして「痛かったねー」と頬に伝った涙を拭ってあげていた。ただ、その母性的な一面は、俺の見たことのないカレンだった。  それはパラレルワールドにおける”違い”なのだろうか。世界が無数にあるということはそこにいる人の性格もそれぞれ微妙に違っているのだろうか。  元の世界でカレンと疎遠になってから六年経っているが、あっちの世界のカレンもこんな風に立派に大人の女性になっているのかもしれない。  その時、俺はもっとも大切なことを理解した。数えきれないほどあるはずの並行世界を越えて、それでもなおカレンを好きでいる自分に気づいたとき、俺は彼女を、見た目だけでなく、しぐさや性格や趣味といったものだけでもなく、さらに深いところにあるもの……彼女の根元にあって本体をなしているもの……そういった深いところから彼女に惹かれているのだと分かった。――俺はカレンを魂ごと愛しているのだ。  全てのステージをクリアし終えた後、球体のコントローラーから手を離し、二人は一息ついた。飲み物を注ぐためにグラスを持ってキッチンへ行ったとき、先ほどのナオトの言葉が風のように俺の中を過ぎ去った。  グラスをカレンに渡した。 「ありがとー。次はどうしよっか。他のゲームやる? それとも、外出て気分転換する?」  俺はその時、カレンの言葉が言い終わるか終わらないかの瞬間に、彼女の両手を取り、瞳をまっすぐに見て言った。 「好きだ」   体感で数秒の間、カレンは何が起きたか分からないといった顔をしていた。だがその目はみるみる動揺を表し始めた。 「えっ? なんで……? え……?」困惑をいっぱいに湛えた目は宙を泳いでいた。「……ミノル、彼女いるんでしょ……?」 「……うん、そうなんだけど」  必死に言葉を探した。だが何一つマシなセリフは浮かんでこなかった。 「いまの俺は……いままでの俺じゃないんだ……」  カレンの顔を見なくとも、いまどういう表情をしているか分かった。  俺は胸の内に迸るものに任せようと思った。 「遅くなってごめん。気づいたんだ、俺にはカレンしかいない。世界で一番俺にぴったりなのはカレンだ。いまこの瞬間を逃したくない。いまの彼女とは別れる。もうこれ以上、友達のままでいるのはイヤだ。カレン、俺と付き合ってくれ」  静かに俺の言葉を聞いていたカレンは、最後の一言を聞き終えると、ゆっくりと視線を落とした。  答えを待っている間、一刻一刻が重く滴るように感じた。  彼女は何かを慎重に考えている様子だった。  ついに目を上げた時、俺はその大きな瞳を期待を込めて見つめた。  彼女が口を開いた。  しかしその瞬間、カレンは、唇を開けたまま、静止した……。  すると、彼女の瞳にも異変が現れ始めた。その目には、みるみる驚きと恐怖の色が浮かび始めたのだ。  見開かれた目は俺ではなく、背後へと向けられていた。  戦慄とともに後ろを振り返った。  窓の向こうにあったのは、見覚えのある景色。目にした瞬間、体が危機感を感じるような、血の色。この世のものとは思えないほど赤に染まった世界がそこに広がっていた。 第3章 再び赤い空 「……なに……これ……?」  カレンは窓から見える真っ赤に染まった空を見て言った。  俺は彼女と同じように窓際でその光景を目にしていた。硬直している横顔が目に入った。  彼女は時計を見たが、夕方の時間帯には三時間以上も早かった。「夕焼け空……じゃないよね……」横にいる俺を見た。  俺はまっすぐ見ていることしかできなかった。膝が震えていた。やはり夢や幻覚ではなかった! 俺があの時見た”赤い空”は現実だったのだ。  元々いた世界で俺が見た通り、その血の色は街全体を覆い、無数のビルに濃い赤色の雨を降らせているかのように、見慣れた日常の光景すべてを侵食していた。最初にこの空を見た時に感じた存在そのものが脅かされるような激しい恐怖感が蘇ってきた。  この空は一体何なのか? なぜ並行世界であるはずのこの世界でも現れているのか?   俺はその謎について冷静に考える前に、カレンの手を取っていた。 「どうしたの?」  彼女は驚きに身を縮こまらせていた。 「今すぐ逃げよう!」  手を握ったまま、俺は玄関へと急いだ。 「ちょ、ちょっとミノル!?」  靴を履き、ドアを開け玄関を抜けると、先ほどの赤い空がさらに大きく見え、生々しく二人を圧倒した。そのまま廊下を駆けてエレベーターへ向かった。  が、それはいつもよりはるかに重々しい金属の塊へと変わっていた。これもあの時見た通りだ――。気味の悪いほど、”存在の活動”そのものが静止していた。下へ向かうボタンを連打したが、無駄だった。 「やっぱりダメか! 階段で降りよう!」  高層階から地上へと続く長い階段をらせん状に降りていると、気が動転している二人の心情はさらに不安定なものになった。  酔うほどに長い階段を下りながら、カレンはさっきから何度も俺の名を叫んでいた。 「ミノル! ちょっと待って! なんで走ってるの!?」 「後で説明する!」  肺が引き裂かれそうな苦しさを覚えながらようやく一階へと着き、出口へ転がり出た。  二人はしばらく激しい呼吸が収まるまでそこに座り込んだ。その間、手はしっかりと握られたままだった。  荒々しい動悸を鎮めた二人はおもむろに立ち上がり、周りを見渡した。地上から見てもやはり街はすべてが赤く染まっていた。グロテスクなほど日常は塗り替えられていた。  二人は示し合わせたかのようにその場を動かず、先ほどからうっすらと感じていた、異様な静けさに耳を傾けた。  物音一つしない。世界中の空気が全て抜けて、真空にでもなったかのように、無音だ。  人一人いない。車は一台も通っていない。野良猫だろうと野良犬だろうと生物一匹さえ、その気配がない。毎日のように通っているコンビニには客もいなければ店員もいない。丸切りもぬけの殻と化した店内の奥は赤黒かった。このコンビニは普段ならば青空に同調するような青を基調とした外観をしているのだが、それを軽々と上書きするような強い赤に覆われていた。俺はそれを見て吐き気すら感じた。  前に感じた戦慄は新しく上書きされ、強い酩酊のような気持ち悪さの中でも俺の感覚は明晰さを得てより正確にいまの状況を捉えていた。  何一つとして”物質の活動”というものが感じられない、外見だけを残して世界のあらゆる物体が”死んだ”かのようだ。ついさっきエレベーターのボタンを押した時に感じた違和感と、以前この赤い空の下でドアノブを回そうとした時に感じた違和感に同じものを感じた。世界が露骨に俺を拒んでいるような感覚……。  俺は再びカレンの手を引っ張って「行こう」と促した。  しかし、彼女の腕は伸びきったまま、動かなかった。 「どうした?」 「……脚が動かないの……」  うつむいたまま震える声で言った。  彼女に向き直った俺は、青いデニム生地の両肩に触れて、焦っている感じが伝わらないように出来るだけ穏やかに語りかけた。 「大丈夫。信じて。……カレンはただ俺の手を握って付いて来てくれるだけでいい。そしたらきっと、ここから出られるから」  カレンは顔を上げた。その目は彼女に告白する前に見た目とまるで違っていた。 「ここは……どこなの?」  俺は少しためらった後こう言った。 「正直、詳しくは分からない。でも、俺は前にここに来てる。この赤い、無音の世界に。だから、この後に起こることは何となく分かる」 「……一体何が起きるの?」 「黒い作業服の男が来る。その男はきっと俺たちを捕らえようとする。どうやら、俺たちはこの世界にとって異物みたいなんだ」そこで言葉を切って周りを見渡した。視線をカレンに戻した後は急かすような調子に変わった。「あまり長く説明していられないんだ。すぐにやって来る。だから、ね」勇気づけるように彼女の手をギュッと握った。  二人は再び走り出した。明確に行く当てがあるわけではない。だが、走らなければいけなかった。  カレンにはあえて言わなかったが、あの黒い作業服の男に捕まりたくない理由は、元の世界に戻されることから逃げたかったからだけではなかった。さっき部屋の窓から赤い空を見た時に、一つのイメージが頭を通り過ぎていた。それは、元の世界に戻った後にカレンと果てしなく隔てられ一日一日を孤独と後悔を感じながら過ごしている自分だった。この世界が再び現れる直前まで、俺はカレンを初めてちゃんと「美しい一人の女性」として見ていたような気がする。それに、その時は、本当にお互いの心を通わせられていたという実感があった。その感覚は(元の世界も含めて)彼女との関係においてこれまで全く味わったことのないものだった。お互いがはじめてちゃんと男女として認識しながら心と心を融かし合っていた。心地よさは例えようがなかった。  いま握っている彼女の手を放すわけにはいかなかった。例え相手が数えきれないほどの並行世界を行き来する存在でも、新しいもう一つの世界で結んだ縁を諦めるわけにはいかなかった。もう二度と見逃さないように、一番近くで彼女の「魂の美しさ」を見ていたかったから。  次から次へと巨大なビルを駆け抜ける。頂上を濃い赤色で隠しながら左右にそびえ立っているビル群は、俺が元々いた世界のものとは比べ物にならない大きさで、威圧感を与えている。  とりあえず駅の方に向かってみようと思った時、どこからか人の気配がした。  はっきりと人の姿が見えたわけではないが、突然「近くに人がいる」という感覚が襲い、鋭く俺の筋肉を強張らせた。なぜかいつになく自分の感覚が鋭くなっていることに気づいた。 「ちょっと待って」  俺は急ブレーキをかけてカレンをその場にとどめた。  意識をあたりいっぱいに広げ、聞き耳を立てるようにして注意深く周りを見渡した。  すると、巨大なビルを隔てた向こうに、人の気配を二つ感じた。  あの男だけじゃない!  俺はあの黒づくめの男がやってきて、また同じ状況になるのだと思っていたが、予想外だった。 「誰かいる」  唇に人差し指を当ててカレンに合図を送りながら、ゆっくりと右手にある曲がり角に近づいて行った。角を曲がった先にも、車線の多い道路が伸びている。  かすかに人の話し声が聞こえてくる。  声は……女性だ。  曲がり角を背にして、一歩ずつ動いた。  息を殺し、できるだけ存在を消した。  俺の心臓は荒れ狂うようだった。おそらくカレンも同じだろう。手のひらから彼女の熱が伝わってくる。  遠くから聞こえる話し声は、近づくにつれて、意識を集中させるにつれて、明瞭になっていった。  曲がり角からほんの少しだけ目を出して、二人を見た。  一人は、異様に冴えた直感が事前に察知していた通り、あの黒い作業服の男だった。もう一人は……初めて見る。スーツを着た二十代後半くらいの綺麗な女性だ。年は俺よりも少し上に見える。彼女の周囲には、そこだけ浮き彫りになっているかのように、どこか清らかでなおかつ威厳のあるオーラが放たれていた。彼女が話しかけている隣の男と同じで、ジャケットとパンツは真っ黒だった。茶色い髪を肩まで下ろし、モデルのように体が引き締まっていて、程よい隆起があった。首元には金色のペンダントがあった。遠くてよく見えなかったが、間近で見なくとも、雰囲気でそれだと分かった。男が黒い作業着の胸に着けていたバッジと同じ模様だ。――金の八芒星と、とぐろを巻く蛇。そしてその片方の目は赤い光を投げかけているようにこちらを睨んでいる――。  スーツの女が話している内容が、かすかにこちらにも届いてきた。 「いいですか。今度は失敗しないように。同じポイントであれば<迷いの間>に入ったとしても見つけられますが、<浮世>が違うと探すのがとても大変なんです。<浮世>が無限にあるのはご存知ですね。その中から<異常体>がいる一点を見つけるには、一旦もどって本部の支援を請わなければなりませんから」  と、彼女はそこまで言うと、あたりを見渡した。  俺は瞬時に身を引いて、体を縮こまらせた。しかし、彼女がまた言葉を続けたのを聞いて安堵した。 「……確かに、今回の件はイレギュラーです。私もほとんど遭ったことのない事態ですから、あなたがミスしてしまうのも無理ないことです。しかし、上は今回の件を重く見ています。多くは語れませんが、彼の登場で<大河>に歪みの連鎖が起きているのです。トップは珍しくはっきりとした指令を我々の部署に送ってきました。これは異例です。それほど、事は重大だと……」  刃物で断絶されたかのように、女は突如として話すのをやめた。  そして今度ははっきりと俺とカレンの方を向いた。  姿をビルの壁に隠している二人には、人をなだめるような優し気な声だけが聞こえた。 「そこにいたのね。よかった……。びっくりさせちゃったわね。もう大丈夫よ」  俺とカレンは息を殺しながら互いに目を見合わせた。  姿は見られていないはずなのに見つかってしまったことにひどく動揺し、心臓は跳ねるような動きで鼓動を繰り返した。  しかし、俺の脚はすでに走る準備をしていた。  俺はカレンの手を握り直した。手のひらは互いの汗で湿っていた。ほんの一瞬の間、俺は彼女に合図を送った。  曲がり角の向こうではまだ女は喋り続けている。 「――今から私たちが……」  その瞬間、二人は駆け出した。 「ちょっと!! 待ちなさい!!」  普段なら大きな車が数えきれないほど走っており、ざわめきに満ちているはずの大きな通りを、俺とカレンは走っていた。  スーツの女と作業服の男が追いかけて来ている。静まり返った街中に反響するアスファルトを蹴る靴の音で分かった。  スーツの女は依然として叫んでいた。  俺は振り返らなかった。走り続けた。首を何度もめぐらして出口を探した。  走りながら俺は考えた。 『もし並行世界というものがあるのなら』  二人は次から次へと曲がり角を曲がった。黒い髪はなびき、青いスカートは揺らめいた。 『このまま二人でいられたら……。時間と世界を超えれば、きっと、誰にも邪魔されずに……』  ビルの間の暗い裏道に入った。日の光は少なく、道幅も狭かった。  しばらく進むと、一つのドアが目に飛び込んで来た。  そのドアはまるで俺たちを待っていたようだった。四方が縁どられたように淡く光っており、他のドアとは比べ物にならないほど際立って見えた。俺はこれだと思った。  そして、迷わずドアノブを握った。 「待って!」 「待ちなさい!」  遠くでスーツの女と作業服の男が叫んでいるのが聞こえる。  ドアを開く瞬間、カレンを見た。  真っすぐ見返す瞳の奥には、これまで共に積み上げてきた時間の奥行きがあった。  俺を信じてくれているのを知って、安堵した。  ドアノブを勢いよく回した。  二人は、誘い込むような、どこまでも真っ白な光に飛び込んで行った。
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