一本だけ

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一本だけ

 「それはそれは、見事な桜だったんだよ。」 母はまるでそこに満開の桜があるかのように、懐かしそうに目を細めた。 弥助(やすけ)は囲炉裏に手をかざし、暖を取りながらぼんやりと話を聞いていた。春を待ち望むこの季節。自然と皆の話題は桜の開花はいつか、というものが多かった。母の話では、昔は小次郎爺さんの家の目の前に五本の見事な桜が並んでいたらしい。 「何でなくなっちまったのさ、その小次郎爺さん家の桜は。」 「火事でねぇ。爺さんも消し止めようと必死だったけど、五本中一本しか残らなかったんだよ。」 ふうん、と弥助は頷いた。小次郎は一人暮らしの爺さんだ。小次郎爺さんの二人の娘は、それぞれ近隣の村の農家に嫁いでいる。妻はいないが、その理由を弥助は知らない。 「あんたも知っていると思うけど、一本残った桜も毎年きれいに咲くんだよ。でもねぇ、小次郎爺さんは『桜なんか嫌いだ』って見もしない。前は大事にしていたんだけどねぇ。」 誰もが春の訪れと共にその開花を喜ぶ、薄い紅色の可憐な花。それが嫌いとは、偏屈な爺さんだとは聞いていたがやはり変わり者のようだ。 「ただいま帰ったよ。」 「弥助、いい子にしてたかい?」 山菜を売りに出ていた父と兄が戻った。そろそろ十四歳になる弥助は、幼い子にするように自分に話しかける兄に、少しむっとした。母親はそんな弥助を見て笑っていた。 夕飯の支度が忙しくなり、小次郎爺さんの桜の話はそこで終わっってしまった。
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