1 彼女

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1 彼女

 いた! 見つけた!  彼女だ、彼女だ、彼女だ!  この後、彼女がいったい何処に行くのか、ぼくは知らない。この朝の電車を降りた後で彼女がいったい何処に行くのか、ぼくは知らない。まだ突き止めてはいない。けれども彼女が火曜日の朝のこの時間に、この電車から降りることは三週間前から知っている。月曜日には降りない/いない。水曜日にも降りない/いない。けれども木曜日には降りる/いる。金曜日にも降りる/いる。土曜日のことは知らない/未知。日曜日のことも知らない/未知。ぼくが知っているのは火曜日と木曜日と金曜日のこの時間の彼女のことだ。実は他にも知っていることがあるのだが、それは追々わかるだろう。彼女についてぼくが知っていることは、だいたい、こんなところだ。  ここは私鉄O線のN駅だ。都会ではなく、郊外でもない、ごく普通のターミナル駅だ。見た目には、この時間帯の朝の駅は乗降客で混雑しているのを除けば清潔だが、時折りエスカレーターの下に胃の内容物が処理されずに残っていることがある。砂をかけられずに残っていることがある。明らかに吐瀉物だとわかる形で撒き散らされていることがある。それを踏んでいる人を見ることがある。それに足を取られて滑って転びそうになっている人を見ることがある。それを実際に踏んでしまって滑って転んでしまって悪態を吐く人を見ることがある。  だから注意が必要だ。だからぼくはいつも下を向いて歩く。いつも下を向いて床を見て、床に目を凝らして歩く。間違って滑って転んでしまわないように床に目を凝らして歩く。  そんなぼくを気にする人間は誰もいない。そんなぼく に気にされる人間も誰もいない。  だけどそんなふうに下を向いて床に目を凝らして歩いていると、落ちている手袋を発見することがある。薄汚れた軍手を発見することがある。女性用の赤い絹の手袋を発見することがある。子供用のオレンジ色の小さな毛糸の手袋を発見することがある。あるいは突っ掛けを発見することがある。壊れて裏が剥がれた草履を発見することがある。踵が異常に高いハイヒールを発見することがある。踵の低いパンプスを発見することがある。踵の低いパンプスから延びた長い脚を発見することがある。ブルージーンズをまとった長い脚を発見することがある。それが美脚だと気づかされることがある。彼女を発見することがある。  数回前にまわって確かめたことがあるけれども彼女の顔は特にきれいではない。ぼくの好みから言えば、ふっくらし過ぎている。瓜実型をし過ぎている。古風な相貌をし過ぎている。でも脚の形は最高だ。すらりと伸びた二本の長い脚がドッキングするお尻の締まり具合は最高だ。真冬でダッフルコートを着ていても、後姿からでもわかる腰のくびれは最高だ。ピンと張った背中の背骨まわりの筋肉は最高だ。後ろからではまったく見えないけれど、ちょうど良く引き締まった浮き出る腹筋は最高だ。でも、それ以上に最高なのは彼女の歩き方だ。彼女の歩き方は美しい。美しい歩き方で彼女は歩く。気取っているわけではないが、王女のように彼女は歩く。ツンと澄ましているわけではないが、巫女のように彼女は歩く。他の誰でもない彼女のように彼女は歩く。  それが、ぼくが彼女を気に入った理由だ。彼女の後をつけまわそうと決めた理由だ。物語がはじまってしまった理由だ。ターミナル駅の階段を降りると、降りたフロアの一部が鏡になっていたことが後押しして、ぼくがそれまで想像していなかったものを発見してしまった理由だ。そんなふうに後付けでクダクダと理由が述べられる理由だ。  彼女の顔の右側には痣がある。そんなに大きくはないが痣がある。生まれつきの痣がある。手術をすればもっとずっと薄くできるのに、彼女が最後のためらいで手術を受けなかった痣がある。手術を受ければファウンデーションをパタパタとするくらいで化粧の中に隠れてしまうはずの痣がある。彼女がいまでも手術を拒んでいる痣がある。それが彼女の顔の右側の痣だ。  彼女の顔の左側にも痣がある。蒼白く腫れ上がった痣がある。大きいこともあれば小さいこともある痣がある。ときにはおでこに移動したり、ときには顎に移動したり、ときには目のまわりに移動したりする痣がある。生まれつきではない痣がある。手術とは無関係の痣がある。彼氏かまたは旦那かまたは事実婚の夫に昨晩か今朝かに殴られてできた痣がある。彼女が毎日鏡で位置を確認しなければならない痣がある。誰かが気づいた途端に、思わず気づかなかった振りをしなければならない痣がある。誰もが気がついているのに、気づいた途端にスマホや本や新聞や雑誌に没頭してしまわなければならない痣がある。でも本当は、それほど惨く腫れているわけでもない痣がある。  彼女をよく見かける乗客たちが彼女の痣に気がつかない振りをするのは、その痣が毎日必ず彼女の顔の何処かに発見されるからだ。だから彼女の顔の移動する痣に気づかなかった乗客たちは、彼女のプロポーションに惚れ込んで話は終わる。あるいは惚れ込まなくて話は終わる。あるいは何も気づかないうちに話は終わる。  最初の日ぼくはそれに気づかない。その数日後に改めて彼女を見かけた日、ぼくは少しだけ訝しむ。そして三度目に彼女を見かけた日に、ぼくはその意味に気づいてしまう。  それが、ぼくが彼女の後をつけまわそうと思い立った第二の理由だ。物語が本当にはじまらねばならなくなった第二の理由だ。ターミナル駅の階段を降りたフロアの反対側の一部が鏡になっていなかったことは関係ない。ぼくがそれまで想像の中だけで知っていた、まったく知らなかった事柄を発見してしまったことも関係ない。でも理由が二つも見つかれば遅かれ早かれすべてが崩壊に向かってまっしぐらに突き進んで行くのは人生の道理だ。  ぼくは彼女を殴る、殴る、殴る!  いや違う、実際に彼女を殴るのは彼女の彼氏だ。  ぼくは彼女を殴る、殴る、殴る!  いや違う、実際に彼女を殴るのは彼女の旦那だ。  ぼくは彼女を殴る、殴る、殴る!  いや違う、実際に彼女を殴るのは彼女の事実婚の夫だ。  想像の中でぼくは彼女を殴っている。彼女の姿が見えない日常のほとんどの時間、ぼくは彼女を殴っている。夢の中でふいに意識を取り戻したときに、ぼくは彼女を殴っている。涙を流しながら、ぼくは彼女を殴っている。もう止めてくれと叫びながら、ぼくは彼女を殴っている。キミが悪いんだ、キミが悪いんだ、キミが悪いんだ、と大声で叫びながら、ぼくは彼女を殴っている。キミのことを愛しているんだ、と叫びながら、ぼくは彼女を殴っている。利き腕の右手の拳に計り知れない痛みを感じながら、ぼくは彼女を殴っている。右手の拳に滲んだ彼女の鮮やかな血の色を眺めながら、ぼくは彼女を殴っている。右手の拳に滲んだぼくの薄汚れた血の色を眺めながら、ぼくは彼女を殴っている。  ぼくは彼女を殴る、殴る、殴る!  でも実際に彼女を殴るのは彼女の彼氏だ、あるいは彼女の旦那だ、あるいは彼女の事実婚の夫だ。  ぼくはまだ彼女を殴ったことはない。ぼくはまだ彼女の肌に触れたことがない。ぼくはまだ一度たりとも彼女の顔の痣に触れたことはない。
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