柳原家の裏事情

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「ちょいとー!手伝っておくれ!」 塀の外にまで聞こえる、年増女の声がする。 洗濯物の取り込みか、部屋の掃除に、手が足りないとの催促だ。 どのみち、櫻子一人に背負わされる仕事だった。 他の女中達は、櫻子に仕事を押し付け、キセルで煙草を吸ったり、台所の板の間で、横になったりと、仕事の合間の休憩だとか言い訳して、役目から逃げていた。 もっとも、屋敷にいる、二名の女中は、皆、義母の声がかりで、この屋しきに来た者達。以前からいた使用人は、皆、とうの昔に、暇を出されていた。つまり、義母の身内のような者達で、当然、櫻子につらく当たってくる。 始めは、不思議に思っていた櫻子も、女中達と義母の関係を耳にして、成る程と、どこか納得したのだった。 義母の勝代は、元は、ここ帝都の振興花街、新橋で、一二を争う人気の芸者だったが、櫻子の母が亡くなった後、すぐに後妻に入った。 その時、身の回りの世話役事とかで、二人の女中を連れてきた。なんでも、豪商の柳原の家に入るのだから、女中の一人や二人付けなくてはと、勝代を抱えていた置屋、かつの屋の女将が采配したらしい。 勝代が、この家にやって来た時、櫻子は、まだ、五つ。その辺りの事情は、分からなかった。新しいお母様だと、父に紹介されたことしか覚えていない。 お母様は、一人だけだと、言い張った櫻子を、勝代は、にっこり笑って、仲良くしましょうね、と、確か、声をかけてくれたはず。 そして、珠子が、すぐに産まれて、皆の態度は変わって行く。 今度は、一人、二人と、昔からの使用人が居なくなり、勝代と共にやって来た女中二人──、ヤスヨとキクが、幅を利かせ始めた。 櫻子の居場所は、段々と無くなって行き、珠子お嬢様のお世話の手伝いを、お姉さんなのだから、それぐらいやって当たり前と、もっともな理由をつけられて、家の裏方の仕事を押し付けられるようになった。 こうして、今に至るのだが、おいおいと、櫻子に起こっている事が、ヤスヨとキクのお喋りから、汲み取る事が出来た。 二人がポツポツと、漏らす話では、結局、勝代は、柳原家の財産目当てに、入り込んで来たようで、それも、まだ、櫻子の母が、病に臥せっていた頃から、父と繋がっていたらしい。 確かに。あの頃、寄り合いだ、商談だと、父は、家を良く開けていた。正しくは、櫻子達が住む別宅に足を運ばなくなっていた。 時は、大正の初め。 日本は、欧州の大戦──、後に第一次世界大戦と呼ばれる戦争に荷担し、軍需景気に沸いていた。 柳原家は、代々、絹織物を取り扱う卸問屋だったが、病弱な櫻子の母、佐枝子の婿となった父、圭助が、そんな世の動きに上手く乗り、色々と商いの手を広げていく。 たまたま、取引先に勧められて買った株が、大化けした為、ひと財産を手にした圭助は、柳原御殿とまで呼ばれる別宅を建てた。 贅を尽くした屋敷は、ゆっくり療養出来るようにと、母、佐枝子への心配りだと、櫻子は聞いていた。 本来の住みかである、本宅は、店のと繋がっている。住居部分は、奥にあるが、庭には、商品を仕舞う蔵があり、店の者達が行き来して、どうしても、騒がしくなる。 そこで、別宅を建てて、佐枝子と櫻子は移ったが、佐枝子亡き今は、その豪邸に、一家で移り住んでいる。 勝代の願いと聞いていた。 ある意味父、圭助は、店を捨てたのだ。主人たるもの、店に住み込み商うのが、鉄則の世において、通いで商っている始末。そして、屋敷の増築に、情熱を注ぐばかり。屋敷は、益々、豪邸に変化していき、物見遊山で、屋敷を見物に来る者すら出始めた。 圭助が、そんなことを始めたのは、家族の為だった。 三味線が得意な勝代が、気兼ねなく三味線を()けるように。小さかった珠子が、雨の日でも、機嫌良く遊べるように。増えていく、二人の衣裳を仕舞えるように。 と、理由は、常に、勝代と珠子で、家族といえども、櫻子の名前は一度も出て来ない。 始めは、訳も分からず指を加えて見ていた櫻子も、自分で考えられる歳になって来ると、この、おかしな環境と、自分が、虐げられていることに気がついた。しかし時は、すでに遅し。屋敷は、義母、勝代に牛耳られ、お嬢様と呼ばれるのは、珠子だけになっていた。 うるさがたの親戚縁者を欺く為なのか、柳原の家、つまり、店を継ぐのは長女──、頭領娘の櫻子だから、裏方の事をしっかり知っておかなければならない。婿を取って、商いを盛り立てられるように、花嫁修業の一環と言い、一方の珠子は、嫁に出す娘。柳原家の名を汚さない為にも、しっかり、学を身につけなければと、女学校へ通わせている。 家族の、店の、と、都合の良いことを言っているが、贅沢に溺れてしまっているのだ。 家長である圭助は、勝代の言いなりで、珠子も、好き放題、なんでも、自由に出来た。 櫻子はというと、屋敷の周りを掃除して、なおかつ、次の仕事が待っていると、仕事を押し付けられる一方。 それでも、櫻子は、耐えた。 父の考えが、変わることを待っているのではなく、母と過ごした、この家と、まだ、愛情を注いでくれていた父が植えたという桜の木から、離れられなかったから。 義母の勝代が、櫻子を邪魔だと思っていることは、明白で、きっと、婿を貰っても、店を継ぐには、年が若すぎるなどと言い、適当な縁談話を持ってきて、この家、店から追い出されるに違いない。 わかっていただけに、それまでは、思い出と暮らして行きたと、そう、櫻子は、過去にすがり、今を生きている。 それが、間違っていると、わかってはいたが、いきなり無の状態で、19の子女が一人で生きて行けるほど、世の中は、甘くない。いや、櫻子自身、一人で生きるという選択と、すべを知らなかったのもある。 履き集めた、桜の花びらを、塵取りですくい取りながら、櫻子は、ふと、思った。 咲いている時は、立派な花。しかし、散ってしまえば、ゴミ扱いかと。どこか、自分と重ねてしまい、作業の手も、鈍くなった。 「どこにいるんだいー!」 櫻子を呼ぶ、焦れた声がする。 「お嬢さん、後は、あっしが、やっときます。早くお行きなさい」 と、聞き覚えのある、しわがれた声が被さって来た。
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