送り狼と紅花の炊き込みご飯

1/1
27人が本棚に入れています
本棚に追加
/62ページ

送り狼と紅花の炊き込みご飯

 なんだあれは、なんだあれは、なんだあれは。  真っ暗な木々の中を走り、得体のしれない何かから逃げる。何度も斜面を転び、泥まみれになっていたが、痛みも何も感じなかった。それよりも絶えず私に注がれる、何か達の視線が恐ろしかった。木々の隙間、草むらの中、木の洞、岩影。  「は、はぁっ、う……」  どこを見ても、なにかがいる。数多の目が私のことを見ていた。そして逃げてきた方からは草木をかき分け私のことを追いかけてくる者がいた。視界が滲んでも、足が縺れても、逃げる先がわからなくても足を止めることなどできなかった。  どうしてこんなことになったのか。もう何でもいいから帰りたかった。  月の綺麗な夜だった。  走る車は疎らだが、仕事帰りのサラリーマン、部活終わりの高校生、塾に向かう中学生たちが、あちらへこちらへ忙しく行きかっていた。ある者は一人家に向かって、ある者は仲間と居酒屋へと足を向ける。  日もすっかり落ちて、夜の帳の降りた空には丸い月がぽっかりと浮いていた。星は月明りのせいで霞み、月は街の街灯のせいで霞むのが常だった。けれど今日はどうしてか、ビルの隙間の狭い空から煌々と月が輝いているのがよく見えた。  ああ、夜も更けていく。  帰路を急ぐ人たちのように、私も帰らねばいけない。そう思い、ベンチから立ち上がろうとして、はたと我に返った。  「あれ…………?」  何も思い出せなかった。  私はどこへ帰ればいいのだろう。  今日私は何をしていた、どうしてここにいる、どうしてベンチに座っていた。どれだけ考えてみても、ここに至るまでの経緯も道のりも、ほんの一欠けらだって思い出せなかった。  込み上げてくる息苦しさにその場でしゃがみ込む。落ち着いて、深呼吸をして、覚えていることを探す。名前、生年月日、住所、所属、一つ一つ追いかけても、何も思い出せなかった。  絶望的になりながら何か荷物はないかと探してみる。あたりを見ても鞄が落ちているということはない。プリーツスカートのポケットに手を入れると、二つ折りの財布が入っていた。そしてはっとする。財布があるのなら中に学生証が入っているのではないだろうか。 中には小銭数百円とお札が数枚、それから病院の診察券、雑貨屋と本屋のポイントカードが入っていた。  「桜良、紅於」  サクラクレナイ。  東雲谷市民病院の診察券に書かれた名前。これが私の名前なのだろう。  桜良紅於、16歳。診察券やポイントカードからわかった情報はそれだけだった。けれど名前がわかったことで、少しだけ心が安定した。何者かもわからない、それが一番恐ろしかったのだ。口の中で、再度自分のものと思しき名前を繰り返す。結局財布の中に学生証や保険証、連絡先や住所のわかるものは入っていなかった。  ベンチの横の電柱を見ると「東雲谷町1丁目」と書いてあったが、聞き覚えのない地名だった。行き交う人々は立ち尽くす私に目もくれない。誰も私の天変地異のようなこの混乱を知る人はおらず、そして私のことを知っている人もいないように見えた。恐る恐る立ちあがり、とにかく人が多い方へと向かう。数分歩くとビルやホテルが立ち並ぶ駅前に出た。帰路に就く人々が駅構内へと吸い込まれていく。明るい大通りにはバスが何台も並び、路面電車がけたたましい音を上げていた。  帰るために、この電車に乗るのだろう。一瞬入ろうかと思ったが、そもそも降りる駅がわからないなら終点まで行ってしまうことになるので、やめた。駅前交番があったので、せめて何か聞ければと思い、入り口から覗き込むが、ちょうど誰もいなかった。  どうしようもなくなって、私は結局元居たベンチへと戻ってきた。さっきよりも人通りは少なく、店の明かりもほとんど消えていた。歩いて分かったことはここが駅前であること、東雲谷町と言う地名、そして記憶が戻るような糸口が何もないということだった。  ベンチに座り、呆然としている間にも夜は深まる。たった一人で、何も覚えていない私はどこへ帰ればいいのだろう。  「ねえあなた一人なの?」  放心しながらベンチに腰かけていると、黒いライダースーツの女性が私に話しかけた。フルフェイスヘルメットのシールドを上げた彼女の視線の先には私しかいない。焦りで乾いた舌を動かして口を開く。  「……そう、みたいですね」  情けなく掠れて虚ろな声だった。  「そっか。まあこんなところに一人でいたら危ないよ。ほら、夜の街には悪い人がたくさんいるし」  黒いレザーの手袋に包まれた手が私の手を取った。私の知り合いなのだろうか。話しぶりからして初対面のようにも思えるが、初対面にしては距離が近い。それも今はわからないことだった。  「バイク、後ろ乗って」  「あ、でもヘルメット」  「じゃ、私の貸してあげる」  それじゃあお姉さんのヘルメットが、と言おうとしたが、あっという間にフルフェイスのヘルメットをかぶせられ、あれよあれよという間に轟音をあげ大型のバイクは走りだす。記憶にないバイクの振動や音に慄きながらお姉さんのお腹に手を回してしがみついた。街の明かりや人々の声が視界の端で流れていく。取り残されていたような寂しさも全部振り払うように。  ふと、バイクがどこに行っているのかわからなくてハッとした。バイクはみるみる街から離れていく。ここから先には山しかない。遅れてやってきた恐怖に鳥肌が立つが、今更走り出したこのバイクから飛び降りることなんてできない。  山の麓へ来てもバイクはスピードを落とさない。どうしてそこに道があるのかわからない細い道をバイクが駆けあがっていく。不審者とわかりつつも揺れるバイクのせいで彼女にしがみつくしかない。この先に何があるのだろう。身ぐるみはがされて埋められてしまうのか。それとも怪しげな宗教団体がいて供物か何かにされてしまうのだろうか。  非日常的な出来事に嫌な考えがぐるぐると浮かんで泣きたくなる。  明り一つない、静かな山の中、突然目の前が明るくなった。  「ついたわ。もう大丈夫よ」  久しぶりにも思える地面の感覚を足で享受しながら、山中から突如現れた建物を見上げた。  「薬膳茶寮・花橘……?」  古びた木の板に書かれた文字を読むと女性は満足げにうなずく。  「知り合いのお店なの。困った子がいるときはここに相談するのが一番なの。何のかんの面倒見のいい奴だから」  なるほど、と頷きいて、ふと彼女を見上げてぎょっとする。人間の耳があるべき場所に何もなく、頭の上から黒い犬のような耳が生えている。よく見ればしっぽまで生えている。頭の中でけたたましく警鐘が鳴り響く。  ああ、このお姉さんはやばい人だ。  「炉善! 炉善いる? お客さん連れてきたわよー!」  暖色の明かりの漏れる暖簾をくぐり、ずんずんと店の中に入っていった女性を見送り、後退った。  ここまでの道のりは一直線だったはず。ならきっと迷わない。それに獣道に見えたがバイクが通るだけの道幅はあった。あの不審者のお姉さんが仲間を連れて戻ってくる前に、逃げなくては。  暖色の光に背を向け、私は山の麓を目指し走り出した。  山道は来た通り、何の明りもない。つい先ほどバイクで登ってきたというのに、今はもうバイク一台スムーズに登れそうな道などなかった。  背の低い木々が頬をかすめる。縦横無尽に走る木の根が私の足をとる。頼りになるのは枝葉の隙間からかすかに差し込む月の光だけ。ほの白い山道をがむしゃらに走った。躓きながら、転びながら。それでも帰らなければと思いながら。  木の根に足を取られ斜面を転げ落ちた。泥濘に両手をつき、立ち上がる。そのとき斜面の先に白い光が見えた。斜面に面した車道があるのだろうか。そうなれば誰かが見つけてくれる可能性もある。何より斜面を転びながら降りるよりもわかりやすい看板もあるだろう。  藁にもすがる思いで青白い光へと駆け寄って、足を止めた。  「蛍光灯、じゃない……?」  車道の蛍光灯の明りではない。街灯にしては位置が低すぎる。なにより普通の街灯は身じろいだりしない。  青白い光は身じろいでいた。かすかに震え、揺れ、あたりを薄く照らす。なんなのか、つい目を凝らした。  そしてそれと目があった。  「ひっ……!?」  それから離れようと斜面を真横に走った。  なんだあれは、なんだあれは、なんだあれは。  白く発光し、動く何か。その何かには顔があった。目鼻があるのかわからなかったのに、明確に目があったと感じた。冷汗が止まらない。身体があの得体のしれないものに近づいてはいけないと警鐘を鳴らしていた。とにかく一刻も早く山の麓に出なくては。  逃げなくてはいけない。余計なことを考えてはいけないとわかっているのに、目が暗い山に慣れ始めて、見えなかったものが見えてくる。見えてしまう。  微かに光るもの、木々に張り付くもの、落ち葉の陰を這うもの、そして枝の上から私を見るもの。周囲は何かであふれていた。  どうしてこんなことになったのか。鼻の奥がつんとした。もう何でもいいから帰りたかった。  「うっ……」  突然私は何かとぶつかった。全力疾走していたため跳ね返されて尻餅をつく。何とぶつかったのか確認しようとして、前を向く。けれどそこには何もなかった。なにもない、ただの空間があるだけ。私がぶつかったものは何もない。首をかしげながら一歩踏み出そうとして、私は再び顔から何かにぶつかった。  何もないのに、何かがいる。全身の毛が逆立つのを感じた。  何も見えないのに、私の目の前には何かがいる。  肌を撫でるのはふわふわとした獣のような感触。  慌てて飛びのいて、逃げようとして、また転んだ。そしてはたと気が付いた。  この場の何か達が一斉に私の方を見た。  「あー! いたいた! 大丈夫? 泥だらけじゃん!」  囲む視線を裂くように斜面から降ってきたのは、先ほどのライダースーツの女性だった。  「あ……」  「表に戻ったらいないんだもの、びっくりしたわー。慣れてない夜の山をいきなり一人で降りるのは無理あるわよ。それもそんなローファーで」  ほらもう汚れちゃってー、なんて気の抜けた声で言いながら私を立ち上がらせ泥のついたスカートを払う。  「い、今、そこに変なのが……」  「変なの? ああ、あいつらね。ほらもう散った散った! 物珍しいのはわかるけど見世物じゃないのよ! 若い子を怖がらせない!」  そう大声を上げると周囲から何か達が一斉に遠ざかっていく気配がした。がさがさという這う音に交じって、何かを呟く声も聞こえてきて背筋が凍る。数秒もすればあたりはすっかり静寂を取り戻し、かすかに虫が鳴くだけとなった。  「ええ、と。もしかしてああいうのとか私みたいなのとか見るの、初めて?」  少し戸惑ったような声でそう言われてぞっとする。今彼女はあたりを囲んでいた有象無象と自信を同じくくりに入れた。 犬耳、尻尾をつけた人攫いのお姉さん、ではない。  目の前で私と話をしているのは一体なんなのだろうか。  「あああ、待って待ってストップ、泣かないで! 初めてなんだもの怖かったわね! びっくりしたわね! でもちょっと待って、何もしないから! 私は困ってる子を助けてあげたい善良なお姉さんだから!」  信用できるわけもなく、今度こそ逃げ出そうとしたところで、今度は足場がなくなった。逃げようと背を向けたところを抱き上げられたのだ。  「やだ、離して!」  「怖くない怖くないわよー! 今から走っていったって同じよ。暗くて転ぶし、よくわかんないのもいっぱいいる。逃げるならせめて夜が明けてからになさい」  「うるさいっ下ろしてっ!」  「最近の若い子は……泣きべそかきながら言っても下ろしてあげないんだから」  手足をばたつかせてもどこ吹く風、ライダースーツのお姉さんは私を抱えたまま斜面を登り始めた。人一人抱えたうえヒールのあるブーツのはずなのに難なく登っていく。  「やめてよお化け!」  「お化けって言葉のチョイスが可愛いわねー! そんなに言うなら人間のところへ連れてってあげるわよ。さっき見たでしょ、あのお店。あそこは電気も水道も通ってる普通の店よ。店主も人間。いったんそこで話を聞く。それから帰る場所があるようならまた街へ送っていくわ」  薬膳茶寮・花橘、さっき見た店だ。確かにあそこは人工的な明りが漏れ出ていた。けれどこの人ではないお姉さんの知人というのは信用できるのだろうか。  「口閉じなさい。舌噛むと痛いわよ」  私が判断をつける前に、グンと引っ張られまた景色が変わった。抱きかかえられたままものすごい勢いで山の斜面を登っている。それこそ、先ほどのバイクと変わらないスピードで。  口を閉じるのと同時に瞼もぎゅっと閉じた。そして瞼を開けると先ほど私が逃げ出した店が目の前にあった。  先ほどと違うのは、店の前に一人の男の人が立っていること。  「伊地知、さっき言ってたのがそいつか」  「ええ、怖くなって逃げ出したみたいなんだけど、山の中でもっと怖い思いしたみたいでもうべそべそ」  「そいつはまた災難だったな……」  気の毒そうな顔をして私のことを見下ろした男の人。強面で、あごには無精ひげ、赤っぽい髪を後ろで結んだ着物姿。けれど伊地知と呼ばれた女性のように獣の耳が付いていることも尻尾が生えていることもない。いたって普通の、ちょっと怖い顔の人だった。  「……まあ、上がれ。とりあえず話は聞こう」  「やっほーい! 今日のご飯何? 煮魚と炊き込みご飯だよね! 匂いでわかる」  「騒ぐなワン公」  「はっ倒すわよ」   逃げ出さないようにするためか、伊地知の片手はしっかりと私の腰に回されている。彼女が店の中に入ろうとすれば当然私も店の中へと連れ込まれるわけで。  「あ、あの」  伊地知より話ができそうな男の人を見上げる。彼は短く唸って、頭をガシガシと掻いた。  「……ようこそ、薬膳茶寮・花橘へ。俺は店主の橘炉善。一時の休息と療養を提供しよう」  そう言って橘は私の背中をとんと押した。
/62ページ

最初のコメントを投稿しよう!