一杯の珈琲

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『今朝のニュースです。コーヒーの価格高騰は続いており、この1年で2倍に値上がりましたが、その原因となっているコーヒーの木黒枯れウイルスが東南アジアに上陸、被害を出しています』  私は一瞬、テレビの画面に目を向けた。  今は打ち合わせ中だ。 「嫌なニュースですね。先生はコーヒーがお好きでしょう?」  そう担当者は言い、私が出したコーヒーを飲む。 「先生の淹れたコーヒーは旨い! バリスタになれるんじゃないですか? で、先生、原稿の進み具合の方は?」  私は木枝実(きえだみのる)、42歳、代表作が深夜ドラマの原作となった小説家だ。  作品は木枝花実(こえだはなみ)と言う女名のペンネームで書いている。  ネットの小説サイト「読書ティータイム」でデビューしたためだ。  そのサイトは名の通り、休憩時間にお茶など飲みながら読書をする場所で、ユーザーの9割以上が女性、作家も女性ばかりだった。  私は小説家になりたかったわけではなく、ただ当時、仕事が見つからず、金に困っていた。  そこで賞金目当てにあれこれと、小説の他にも絵を描いたり作曲したり、いろいろ応募し、その中で唯一「読書ティータイム」のみ、連絡があった。 だが、作家デビューの条件に、私のプロフィールが20代女性となることが含まれていた。  現在の私は32歳と言う設定のはずだ。  そして私は、その辺のことはどうでも良かった。  この歳まで彼女もできず、金もない。  こんな私に何かしらやることがあるだけで幸せだった。  だから常に担当編集者の言う通りにしていた。 「先生、5年前の先生の代表作、今も結構売れています」 「そうですか」  と言っても、それほどではないだろう。  ドラマ化したと言っても、深夜枠だった。  ドラマは私の原作とはタイトルも異なり、主演の俳優は新人だった。  それでも当分の間は、作家を続けてゆけるだろう。 【それから3年後】 『今朝のニュースです。コーヒーの価格高騰は相変わらず続いており、スタァバックスコーヒーはタンポポを原料とした新製品を主力にすると発表、タリィズコーヒーは高級紅茶店にリニューアル、ドトォルコーヒーは店名をドトォル茶屋と改め和風カフェとして展開することを発表しました。既にコーヒーは庶民が気軽に飲める価格ではありません。この流れに伴い、コーヒー豆以外を原料とする商品に「コーヒー」と表示することを禁じる法案が可決されました』  私はテレビを見ながら、コーヒーを飲んでいた。  そう、コーヒーだ。  45歳になり、私の人生に転機がやってきたのだ。  父が亡くなり、私は遺産を相続した。  母は私が学生の時に亡くなっており、父は再婚はしなかった。  私には兄が1人いるが、兄は相続を放棄した。  兄は良家の跡取り娘と結婚して婿養子となっており、さらに兄個人の事業も大成功していた。  兄は父の財産をすべて私に譲ると言い、その代わりに条件を出した。  三流小説家よりもましな肩書を持ち、結婚して身を固めろと。  兄は私のことを恥ずかしく思っているのかもしれない。  それでも当分の間は作家を続けるつもりだった。 【それから10年後】     『今朝のニュースです。国際自然保護連合は、コーヒーの木を絶滅危惧種と認定し、輸出入を規制すると発表しました。スタァバックスバラエティカフェ、タリィズ高級紅茶専門店、ドトォル茶屋は、今日ではまったく方向性の異なるお店としてどれも人気ですが、昔はいずれもコーヒーショップでした。この中で今も本物のコーヒーを事前に予約すればオーダー可能なのはタリィズですが、今回の発表を受けて今月いっぱいで取り扱いを終了するとのことです』  55歳の私は、テレビの前に妻と二人で座っていた。 「残念なニュースね。実さんはコーヒーがお好きでしょう?」  そう妻は言い、私が淹れた紅茶を飲む。  妻は5歳年下で、8年前に見合い結婚した。  私たちに子供はできなかった。  だが夫婦仲は良好だ。  私が結婚できたのも、夫婦仲が良いのも、父の遺産のお蔭だ。  愛とかそう言うことじゃない。  だが妻は金目当てに私と結婚したわけじゃない。  私は今も文筆業を続けていたが、もう小説家ではなかった。  喫茶に関する動画配信をしている女性インフルエンサーの著書の、代筆がメインの仕事だった。  それとは別に、兄の紹介で私立大学の講師の仕事をしていた。  兄との約束は果たせたと思うし、私も今の人生に不満はなかった。  ただ、すべてが妥協であった。 【それからさらに10年後】 『今朝のニュースです。10年前に絶滅危惧種に認定され、輸出入を規制されたコーヒーですが、昨今、偽物の販売が問題となっています。規制前に缶詰などの形で長期保存可能とした豆の買い占め問題がありましたが、それを賞味期限が迫っているため特別に安く譲るなどと言って、フリマアプリ等で販売しているものの、中身がまったく別モノと言う事件が相次いでいます』  65歳の私は、テレビのボリュームを上げた。 『評論家の佐藤先生、この問題について、どう思われますか?』 『買うのはコーヒーを飲んだ経験がない、コーヒー豆を一度も見たことがない若い人が多いようです。それも転売目的ですね』  豆の買い占め問題は、よく憶えている。  私も大量に買い占めた。  今もまだ自宅にかなり残っているが、売れば一財産になるのかもしれない。  だが、私は売る気はない。  すべて自分で飲むつもりだ。  妻は元々好きではないと言って、決して飲まなかった。  私に気を遣ってくれているのかもしれない。  私は恵まれていると思う。  だが、なぜだろう?  いつからだろう?  どうしてこんなことになってしまったんだろう?  振り返れば私の人生は女名で興味のない小説を書き、兄の望む仕事をし、どちらの仕事も既にリタイアした今、他にはコーヒーを飲んで時間を浪費した記憶しかない、と言うものだった。  私は何のために生きてきたんだろうか? 【それから5年後】 『今朝のニュースです。若者に人気の和風カフェ、ドトォル茶屋が、アメリカで話題となり、ツイッターでトレンド入りしています。ドトォル茶屋は元々はコーヒーショップでしたが25年前に方向転換し、低価格帯の和風カフェとして絶大な支持を得てきました。このカフェの特徴は入口の下駄箱に靴を預けて畳のお部屋でお茶が楽しめる点ですが、アメリカでは本格的な茶室も併設し、伝統的な茶道体験もできるカフェとして展開、これが大変な人気となっています。その一方で、昔は同じくコーヒーショップだったスタァバックスバラエティカフェは、今年もオリジナルレシピコンテストを開催、優勝者にはドリンクソムリエの称号が送られ、』 「大叔父さん、体調はどうですか?」  私は70歳になっていた。  今日は、兄の孫娘のエリサが訪ねて来ていた。  本当は兄の娘夫婦が一緒に来るはずだったのが都合が悪くなったらしく、その娘のエリサが一人で来たのだと言う。  私の兄は2年前に亡くなった。 「今日は、体調は良い方だよ」  私は癌で、余命は半年と言われている。  医者が言うには手術はできないそうだ。  エリサは見舞いに来たわけだが、私はそれを少し不思議に思っていた。  顔を合わせたことは何度かあったが、付き合いはなかったからだ。  だが、やがて、そのわけがわかった。 「私、大叔父さんの小説を読みました。ドラマ化したって言う……」 「ああ、あれか。どうして知ったのかね?」 「母が祖父から本を貰ったと言っていました。私が小説を書きたいと言ったら、大叔父さんは昔小説家だったと言って」  なるほど。  若い彼女は、進路のことで悩んで、私に相談に来たと言ったところか。  私が生きている内に、話を聞いておきたいのだろう。  兄が、私が書いた本を持っていたとは驚いた。 「女性作家として書かれていたんですよね? 女性向けのお話だと言うことはわかるんですけど、これはどう言うジャンルのお話なのですか?」 「それは昔ね、一時だけ流行った、レディースファンタジーミステリーと言うジャンルでね」  当時、働く女性に、恋愛物があまり受けなかった。  仕事で疲れていて、現実を忘れられる物語が読みたいと言われた。  そんな時に誰かが、非現実的なファンタジーを謎の多いミステリー調で書き、それが受けたのがきっかけだったはずだ。 「大叔父さんは、何を思ってこれを書いたんですか?」 「うーん、そうだなあ。君の夢を壊すことにならなきゃいいけど、こう言う物語が需要があったから書いただけなんだよ。商業作家って言うのは、読む人のことを考えて書くのが仕事だから」  エリサは複雑な顔をした。 「大叔父さんは、それで幸せだった?」 「……どうだろう? 正直、よくわからない。けど主人公が喫茶店のマスターで、喫茶を楽しむシーンをたくさん書けたのは楽しかった。そのマスターが黒猫って言う設定は、読者アンケートを元に編集者が決めたことだったけれど、それも悪くはないと思っていたよ」  本のタイトルは『一杯の珈琲』だった。  たった一杯の珈琲で魔法をかける、そんな物語だった。  私もすっかり忘れていたが。 「大叔父さん、珈琲って、どんな物ですか? お酒のような?」  ああ、そうか。  エリサはコーヒーを知らない。  この物語からしか。  魔法をかけると言うそれを、知りたいのだろう。 「君は歳はいくつだっけ?」 「18になりました」 「18か。じゃあ、大丈夫かな。今からそのコーヒーを淹れてあげよう。実際に飲んでみればいい」 「とんでもない! それは遠慮します! そんな高価な物、いただけません!」  私は笑って言った。 「買った時はそれほど高くなかったし、保存技術が進歩したと言ってもいつまでも保つわけじゃない。それに、妻はコーヒーが苦手で、私一人では飲みきれなくてね」  妻は本当にコーヒーが苦手だった。  エリサのために菓子を買いに行ったが、そろそろ戻ってくるだろう。  私はコーヒー豆を出してエリサに見せ、いつものようにサイフォンで淹れた。  エリサは不思議そうに見ていた。  さて、気に入ってくれるだろうか。 「とても、良い香りがします」  そう言って、エリサはしばらく香りを嗅ぎ、熱すぎない程度に冷めたところで口にはこんだ。  無言で、カップの中のコーヒーを見詰めていた。  だが、笑顔だった。  どうやら気に入ってくれたようだ。  妻が菓子を持ってきてくれたが、彼女は茶会に加わらずキッチンへ戻って行った。  エリサが言った。 「きっと、私が珈琲を飲むのは、これが最初で最後ですね。貴重な体験をさせてくださり、ありがとうございます」 「気に入ったかね?」 「時間が止まったような、感じでした」  その言葉に、私は共感するものがあった。  私はいつも、これが最後の一杯かもしれないと思い、飲んだ。  医者はあと半年だと言うが、実際はどのくらい時間が残っているのかわからない。  毎日が過ぎてゆく。  大したこともできないままだ。  妻に申し訳ないなどとも考える。  だが、そんな中、一杯のコーヒーを飲む間、ただそれを楽しむことに集中できるのだ。  砂が落ちるように残り時間が減ってゆく私の人生が、幸福の香りで満たされ、時間が止まったように感じる瞬間だ。  私は一つ、後悔していることがあった。  私は手持ちのコーヒーを飲みきれないまま、この世を去るだろう。  これが私の人生を象徴している。 「エリサ、私が死んだら、残ったコーヒー豆を君にあげよう。多分、少し残ると思う。少ないだろうけどね。だけど、その代わり、約束してほしいことがあるんだ」  親戚とは言っても、この子を私はよくは知らない。  だが、きっと賢い子に違いない。  彼女は一瞬とても驚いた顔をし、それから冷静に応えた。 「私でできることなら」  私はエリサを気に入ったので、話を続けた。 「コーヒーに価値があるのは、今の時代は入手できないからだ。それがありふれたものだった頃は、人々は大して価値を感じてなかったかもしれない」  エリサは黙って頷く。 「だからね、君が飲むのがコーヒーか紅茶かは重要じゃなくて、それをどう飲むかなんだ。価値ある飲み方をしてほしい。君自身のために」 「それは、どうすれば?」  私はどう伝えようか考える。 「そうだな、これが最後の一杯になるかもしれない、そう思って飲むことかな」  私はエリサに、私のような後悔をしてほしくはなかった。 「それとね、君がもしも小説を書くなら、これが最後の物語だと、そう思って書くことをすすめる」 「大叔父さんが言うこと、わかります」  エリサは真剣な顔で言った。  その心を、何となく察した。  おそらく彼女は今日、私から話が聞けるのは、これが最後の機会と思って来てくれたのだろう。  そこで、妻がやってきた。  食事を作ったと言うので、私たちは一緒に食べることにした。  久々に賑やかな食卓だ。  私が最期に思い出したのは、その日のことだった。 【それから40年後】  私は日下部エリサ、58歳、28歳で結婚し、翌年最初の息子、ヒロシが生まれた。  他に次男と長女がいる。  夫は元気だ。  今日は息子のヒロシの表彰式に、夫と二人で出席している。  40年前、私は大叔父に会い、重要なことを教わったように思う。  大叔父は当時、余命半年を告げられていて、私はどうしても大叔父が生きている内に話を聞きたかった。  結局大叔父はその後1年生き、その間に5回会った。  大叔父の死後、私はコーヒー豆を貰った。  少ししかないと聞いていたが、結構な量だった。  私は結局、小説家にはならず、編集者になった。  夫とは職場結婚だ。  ヒロシは高校生になる頃に、私と一緒にコーヒーを飲んだ。  味はかなり落ちていたが飲めた。  それが、大叔父が残したコーヒーの最後だった。  ヒロシは大学では植物学を専攻し、そのまま研究者になったが、今日、彼は表彰される。  コーヒーの木黒枯れウイルスに耐性を持った品種を開発し、成功したのだ。  大叔父は最後だと言ったけれど、最後の後にも、何かしら続く物語はあるものだ。  『一杯の珈琲』が、再びありふれたものとなる時代が来るかもしれない。  私はそれを、嬉しく思っていた。
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