かがみの向こう側に

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かがみの向こう側に

「あーー! むしゃくしゃするーー!」  その日私はかなり腹を立てていた。これまでどんなに説明しても「いいんじゃない」としか言ってなかった部長が、今日の夕方の会議でいきなり 「このプロジェクトさあ、今いう事じゃないかもしれないけど、やる意味あるの?」 ってひっくり返してきたのだ。ドヤ顔で。  今いうことじゃないよ! 最初に言えよ! なんで来週社長に見せますっていうタイミングでひっくり返してくるんだよ! 社長に「やる意味あるの?」って言われたときに自分で答えられないから私に言ってみただけだろ! 「むーーかーーつーーくーー!」  家に着いた私は、扉の鍵を閉めると、カバンを玄関先に放り投げ、コートを部屋に脱ぎ捨て、ガコーーンと派手な音を立てて冷蔵庫を開けた。中から高濃度ハイボールを取り出してプシ、とプルタブを立てる。ごっごっごっと一息で半分くらい飲んだ。 「こういう日は! 7%がゆるされる!」  と呟いたあと、ふうう、と息をついた。  ほんとうになんなんだ。部長なんて毎日暇そうにソリティアやってるだけなのに、私の倍以上給料もらってるの、ほんとむかつく。ダメ出しするのが仕事だと思ってんだろ。  涙が出そうになったが、あんなやつのために泣くのも腹立たしかった。ぐっと我慢するととりあえずハイボールの缶をテーブルに置いて、コートを吊す。着ていた服をスウェットに着替えた。 「あーーあ」  やるせない気持ちでベッドに座った。おなかは空いてるけど作る気力がない。怒りのあまりにスーパーに寄るのを忘れていた。弁当でも買ってくれば良かった。レトルトでなにかあったかなと思って考えを巡らせるが、全然思い出せなかった。 「冷凍うどんか何かあったら鍋に適当に野菜とか冷凍肉突っ込んで煮れば、それでいっか……」  ハイボールを手に、そう思いながら立ち上がる。キッチンに行く途中で姿見として使っている鏡が見えた。通るときについ目を向けてしまうのだが、今日は違和感で立ち止まった。 「ん?」  大きくもない自分の部屋が映っている。それはいい。 「なんで私、映ってないの」  鏡に寄るが、目の前に立っているはずの自分がまったく映っていなかった。  後ろを振り返る。さっき吊したコートが見える。鏡に目を戻す。私が立っているはずの場所に誰もおらず、壁のコートが映っている。 「えっ……。もしかして私死んだ……?」  動揺が体を包んだ。心臓がどきどきと音を立てる。体をむやみに触ってみたが、別に透けていたり、通り抜けたりはしなかった。  生きてる……生きてるよね……?  死んだとしたらコートがこの部屋にかかってるのおかしいよね。コートが綺麗な状態って事は、事故とか事件とかで帰れなかったわけじゃないって事だよね。  無理に自分を納得させながら、携帯電話を探す。誰か、誰かに連絡しないと。 「メイ、メイ……」  画面から親友の名前を探した。指と手がガタガタ震えている。  震える指でメイの名前を探し出し、コールボタンを押した。メイは5コールくらいで出てくれた。 「メイ……!」 「おーー、ゆづき、どうしたのーー?」  のんびりした親友の声が聞こえた。少しだけ冷静になる。 「メイ、あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」 「うん?」 「鏡に自分が映らなくなることって、ある?」 「ハァ? 意味わかんないんだけど。あるわけないじゃん。酔ってんの?」  メイは電話の向こうで爆笑している。 「ない……よね……」  そう言いながら鏡を見るが、相変わらずがらんとした部屋だけが鏡に映っていた。私の姿はない。 「え、どうしたの、元気ないじゃん」 「……今日ちょっと部長とバトっちゃってさ」 「マジかーー。酒飲んで寝な寝な。あっ、ごめん私いまホームでさ。電車きた。帰ったらかけ直そうか?」 「や、いいよ、ごめん帰るときに。お疲れ」  ぷつ、と通話を切る。そのまま鏡を再度見たが、やっぱり自分は映ってなかった。動揺で床に置いたハイボールをつかんで、あおった。 「生きてる。そして、酔ってないはず……」  姿見をひっくり返して裏を確認する。特になんの異常もない。 「……うどんを食べよう。そうだ、おなかが空いているからだ。きっと。目がおかしくなってるんだ」  とりあえず死んではいないらしい事が確認できたので、力が抜けた。鏡を見ないようにしながらキッチンに移動して冷凍庫をひらくと、運良くうどんが1玉残っていた。肉と野菜とうどんを顆粒のダシで適当に煮れば一食だ。  うどんを入れたどんぶりを運び、ハイボール、箸を持って部屋に戻ったが、気持ち悪いので姿見に姿が映る場所には座らないようにした。うどんをすすりながら、部屋を移す姿見を見つめているが、ここからの角度だと普通の姿見だ。 「……!」  突然、鏡の前に人影が映り込み、食べかけのうどんをずっ、と吸い込んでしまって思い切りむせた。 「……っっ、げほっ、うっ、ごほっ……」  ティッシュをつかみながら鏡を見ると、私が映っている。鏡の中の私は、鏡の前に立ってくるくると洋服を確認していた。私はここに座っているのに。  ティッシュで鼻と口を押さえながら、涙目で鏡を見ていると、誰かに呼ばれたように私は玄関の方を見た。そのまま鏡の前から消える。 「え? なに?」  私の頭は大混乱していた。私が二人いる。いや、鏡の中にもう一人いる。  そうして戻って来た私は、誰か知らない男性と一緒だった。  男? 今つきあっている男はいないが? 誰を連れ込んでるんじゃおのれは。  声を出してはいけない気がして、黙ってみていたが、姿見の前で立ったまま男の首に手を回し、キスをするように顔を近づけていく自分を見て、思わず大声を上げた。 「な、何してんの!?」  鏡の中の私が、驚いたようにテーブルの方向を振り返ったのが写り、ぱりん、とガラスが砕けるような音がした。  その瞬間、鏡の中の私と、男の姿は消えた。  私は夢から醒めたような気持ちで、しばらくぼうっとしていたが、姿見に近寄ってみた。私が普通に映っている。  部屋を見回す。テーブルに、うどんとハイボールの缶が載っている。もう一度鏡を見る。私が映っている。 「なんだったのあれ……」  ストレスのあまり幻覚でも見たのか、と思ったが、色々ありすぎて考える事が億劫になり、無心でうどんをすすり、シャワーを浴びて、寝た。  翌日、部長は昨日の元気はどこへやら、朝からしょぼくれていた。 「なんかさあ、社長に怒られたらしいよ。勤務中のソリティアがばれて。減給の上、来月異動だってサ」  隣の同僚がこそこそとささやいてくれる。  ざまぁ、と思いながらメールをチェックしていると、後ろから声をかけられた。振り返ると、知らない男性が書類を差し出している。 「これ、木下さんに課長から」  書類を受け取り、「どうも」と言いながら顔を見上げて、思わず声を上げそうになる。鏡に映っていた男だ。男はぺこっと頭を下げると、去って行った。 「誰あの人」  こそこそと同僚に聞くと、同僚は「ああ」と言って教えてくれた。 「中途採用で隣の部署に来た人だよ」  へえ、といいながら、私はその人を目で追った。  不思議な気持ちが、私を包み続けていた。
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