一夜ひとよ

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「なら待たせてもらうぜ」  簡単に商人風情と表現したが、相手を油断させる為などではなく、本当にこの男は家業である自家製の薬の行商をしているのだ。  何故、剣術道具などわざわざ重いものを持ち歩いているのか、それはこうして道場を訪れては稽古を付けてくれと持ち掛け、まんまと怪我を負わせて薬を売りつけるという、かなり柔らかい表現では訪問販売をしているからだ。  売り歩いた先は甲府、川越、横浜方面が多かった。  しかし今回はここに居る筈の者を鬼瓦と呼ぶように知人がいて、不在と知ればいつ帰るかとも聞かずに待つ程の重大な用事があるようだ。 「生憎、今日はお戻りになりません。お帰りください」  そして二度と来るな、とでも言いたげな、少し睨み付けるような眼をしている。と、言うのもこの青年が普段は誰に対してもいつでも朗らかな微笑みを絶やさないような人柄というかそういう風に振る舞っているので、その状態を知る者達からすればそれは異様で、明らかに珍しく機嫌が悪いというか何やら怒っているように察せられる。  それは、彼の稽古中の目付きにとても似ているようで、実は違う。  いつも朗らかな彼が門弟や出稽古先で稽古を付ける時には別人のように短気で厳しかったという。それは、道場主たる、突然現れた薬売り曰く鬼瓦自ら付けるそれよりも数段勝るもので、弟子の誰もがむしろ一番年少にすら見える塾頭に扱かれるのを嫌がっていた。 「鬼瓦のヤツ、いつでも来いとか言ってた癖によ」  その蔑称が、目の前の青年を苛立たせていることを知ってか知らずか、恐らく思い付きもしないのであろう、薬売りはドッカと重たげに荷物というか売り物である大量の薬が入った箱を置いた。箱には大きく山形の屋根の下に丸の紋が入っている。  田舎の剣術道場である。よく知りもしない輩から馬鹿にされることぐらいは何度でもあり、その度に怒っていたわけではない。  本来の性格である短気さというか気難しさが色濃く出る稽古中の出来事だったのがまずかった。  帰れと言われたのすら無視するつもりらしい。尤も悪気もないらしいのだが。  残念ながら薬は売れていないようだ。今日は鬼瓦に会うのを、その次期道場主として引き継ぐ稽古場がどんな所か見るのを楽しみに出かけて来たのだから元より気にしていないのだが。  それでもしっかり薬箱満載に薬を詰めてやって来ているのは出掛けるのを見送る家族の手前、真面目に行商に行く様を装う為だ。取り繕っても、売れ行きを見れば仕事に行ったのか遊びに行ったのかは瞭然だというのに、後のことは考えていないのだろうか。
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