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 死んだはずの親友からメッセージが届いた のは、北の街が桜色に染まり始めた晩春のこ とだった。  『帰って来いや、』というたったひと言が、 僕の目に飛び込んでくる。もう二度と来るは ずのないアイツの言葉が、なぜか青空を背景 にぽっかりと浮かんでいる。    「……誰だよ、いったい」  僕は誰にも聞こえないようにぼそりと呟く と、桜雨(さくらあめ)に濡れる窓の外に目を移した。  穏やかな川の流れと共に続く緑豊かな河川 敷が、咲き誇る三百本もの桜木で春色に染ま っている。幾人かの人々が傘をさしながら、 見事な桜並木をゆったりと歩いていた。  その長閑な風景を遠くに見やりながら唇を 噛み締めると、不意に、ほわ、と珈琲の香り が鼻を掠めた。空っぽの白いカップに、コポ コポと琥珀色の液体が注がれる。  注いでくれているマスターを見上げれば、 彼はもしゃもしゃと生えた灰白の口髭を歪め、 小首を傾げていた。  「何だか寒そうな顔してたから、お代わり。 熱いの飲んで午後も頑張ってよ」  僕が一抹の気恥ずかしさを覚えながら含羞 むと、マスターも窓の外に目を向けた。  「真っ青な空の下に広がる淡色の桜も綺麗 だけど、はらはらと川面に散る桜も見ている と時を忘れるよね。いましか見られない愁い を帯びた光景が、ぐっと胸に沁みるっていう かさ」  「……そうですね」  僕は答えつつ、目を伏せる。  川面に散る桜とあの日の光景が記憶の奥で 重なって、胸が重い何かで押しつぶされるよ うに苦しくなってしまった。  そんな僕の様子に気付いたのだろうか?  マスターは、ぽん、と肩に手を載せると、 「飲み終わるまでゆっくりしていいから」 と言い置いて、カウンターへ戻っていった。  遠く、見知らぬ北の街に僕が逃げてきたの は、親友がこの世を去ってから二カ月が過ぎ た頃だった。それまでは小・中・高を東京で 過ごし、そのまま都内の私立大を出て大手電 機メーカーのデジタルビジネス統括部に就職。  晴れて希望の部署に配属された僕は、SE として仕事に忙殺される日々を送っていた。   朝から晩まで判を押したような毎日は季節 の移り変わりに気付けないほど忙しかったけ れど、あの頃の僕はへとへとに疲れていても 心は満たされていたと思う。  社会の一員として立派にやっているという 自負があったし、決して思い上がりではなく、 自分は会社に必要とされているという自信も あったのだから。
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