特別と言うには大袈裟な日

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特別と言うには大袈裟な日

──ハイヒールが折れた。それも仕事帰りの駅の階段で。同時に足を挫いて、盛大な尻もちをつきながら階段を下った。 頭では自分の身になにが起きたのか理解している。ハイヒールが折れて、公衆の面前で痛々しい視線だけを貰って、可哀想なOLに成り果てた私。乱れたスーツに汚れたスカート。羞恥心を覚えるよりも気力が湧かず、立ち上がることすらできない。 自分を鼓舞するように、それでいて諦めの溜息をひとつ吐いて、ハイヒールを両足とも脱ぐ。ほぼ裸足同然の足で私を避けて歩く人々の中心に立ち、ここで自分の鞄が無いことに気づいた。転んだ拍子に階段上にでも置き去りにされたのかと、振り返って階段を見上げる。すれば、母親に抱き抱えられた赤子と目が合った。 くりくりとした人形のような瞳で私を見て、きゃっきゃっと嬉しそうに笑うではないか。まるで、ハイヒールが折れてお尻で階段を下る私を見ていたかのように、赤子は私を見て笑う。 母親は私の視線が気になったのだろう。赤子の目の前を手のひらで覆い、私の横を素通りして行った。そんな親子を見送り、そんなにも私は滑稽な生き物に見えたのかと憤りを覚えつつ、この世に生を受けたばかりの赤子にすら苛立ちを覚える自分が、酷く情けない生き物に思えた。すれば、またひとつ。溜息を吐き、私は目線だけで鞄を探し始める。 ──しかし、鞄はどこにも見当たらない。確かに転ぶ前までは手にしていた、私の白い鞄がどこにもないのだ。同じような白い鞄を持つ人はちらほら居るものの、私の鞄はどちらかと言えばクリーム色に近く、特徴的な銀色のチェーンがついている。そこら辺に転がっていれば直ぐに目につく筈だ。それなのに、私の目には私の鞄らしき物が映らない。もしや多くの人混みに揉まれて、何者かに盗まれてしまったのだろうかと、嫌な想像が頭の中を巡る。 鞄の中には休み明けに必要な会議の書類はもちろんのこと、華金をいい事にお持ち帰りしてきた仕事も入っている。なんならノートパソコンが丸ごと入っている為、中を見られれば会社の情報が丸わかりである。 とりあえず警察に被害届を、と。私は携帯電話を探し始めた。スーツのポケットの中。スカートのポケットの中。そこまで探して、携帯電話も鞄の中にあるのだった事を思い出す。まぬけな自分に呆れつつ、頭の中は意外と冷静だ。携帯電話が手元に無いなら、改札前の公衆電話を使えばいい話だ。 私は痛む左足首を強引に動かして、残りの階段を下りる。公衆電話がある改札前は目と鼻の先……とまでは行かないが、目に見える範囲にはある為、私は今度こそ自分を鼓舞するための息を吐き、痛い方の左足から前進した。
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