《197》

2/12
141人が本棚に入れています
本棚に追加
/296ページ
 どうしても物足りなさを感じてしまう。孫子を諳じる徳川家康の嫡男、徳川秀忠の声に耳を傾けながら、榊原康政は不満が顔に出ないよう心がけていた。秀忠は変に敏いところがある。康政の小さな表情の変化を読み、心を病むかもしれない。  館林城城区内の屋敷である。障子戸の隙間から忍び入ってくる風はすでに冷たい。部屋には火鉢を一つだけ入れている。孫子に続き、左氏春秋を諳じ始めた秀忠が寒そうに身を縮こまらせた。火鉢をもう一つ、屋敷の使用人にそう命じそうになるのを康政は堪えた。まだ10月だ。今から寒さに体を慣らしていかなければ、本格的な冬が来た時、体を壊す。  秀忠を文武両道の名将に育て上げてくれ。そう言って家康は今年の初め、秀忠を館林城に送り込んできた。元々康政は秀忠が少年だった頃から傅役を務めていた。  秀忠はすでに二十歳だが、色白の顔には髭が生えていない。女人のような美しい肌をしていて、変に目鼻立ちが整い過ぎている顔が武士としての物足りなさに拍車をかけていた。 「私の兄上とは、どんなお方だったのですか」 書見の合間、秀忠がそんな質問をぶつけてきた。そこで康政は気づく。この若者に物足りなさを感じてしまう一番の大きな要因は、かつて家康の後継者だった信康と比べてしまうからだ。 「御館様から、お聞きになった事はないのですか」  秀忠は穏やかな表情で首を横に振る。 「齢10の時、一度だけ訊ねましたが、父上は悲しそうな表情をしただけで何も応えてはくれませんでした。それでなんとなく聞いてはならない話なのだと思い、それ以来兄上の話題には触れておりません」 「猛々しい方でしたよ」 康政は言った。 「乱世に立つにふさわしいお方だと誰もが期待していました」
/296ページ

最初のコメントを投稿しよう!