1

1/5
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/31ページ

1

 窓へと抜けていく紫色の煙を、僕は視線だけで追いかけていた。太陽の光で濃紺に焦げた空には、どこか別の世界から切り取って持ってこられた借り物のような綺麗な月が浮かんでいる。月の引力に誘われるまま、僕の吐いた煙は決まった方向へと流れている。網戸の隅の方に、長い年月に押しやられた埃が固まっているのが見えた。僕は見ないふりをしたが、何となく居心地が悪くなって隣で寝ている彼女にかかった布団を整えた。少しだけ覗く彼女の肩が、穏やかな速度で浮き沈みしている。  窓際に置いた白い無地の小さな灰皿。その中には途中で無理やり消された煙草が灰を被って倒れていた。僕は右手の指に挟んだ煙草の灰を落とし、また口に咥えた。煙草を吸い終えたら、吸い殻を捨てなければならない。僕の唇に張り付いたこの煙草は、そのための時限装置だった。  彼女を挟んで向こう側、僕らの居住空間は夜の闇の中でほんの少しだけ広く見える。部屋の真ん中に配置された丸テーブルには、先程まで飲んでいた珈琲が残ったマグカップが置きっぱなしになっている。青が僕、赤が彼女。湯気はとうに消え失せ、残っているのはただの黒い液体だ。  僕は夜の雫のようなその液体を飲むと、どこにいても穏やかな気持ちになることが出来た。昼の賑やかな街は、レンズを通して見ているような錯覚を僕にもたらし、あまりに長い時間外の世界に触れ合うとすっかり酔ってしまって気分が悪くなる。よもつへぐい、と言うんだったか。黄泉の国で作られたものを飲み食いすると戻ってこられなくなるという話を聞いたことがある。僕はきっとどこかで、何かの間違いで、夜によって作られた珈琲を飲んでしまったに違いない。別の星からやってきて、擬態だけが上手になったはぐれ者。僕はそういう存在だ。彼女は、どうだろう。今の僕には分からなくなってしまった。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!