マスターの不在

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マスターの不在

今日も酒場の扉を開く いつものことだ そのままいつもの席に座る しばらくして出てきたのは、最近新しく入ったという温螢(おんけい)という少年だった 「舞桜様、いかがいたしましょう?」 そう言って頭を下げる姿は初々しい 「レモネードで」 「かしこまりました」 温螢は一度姿を消すと、レモネードと複数枚の依頼書を持って戻ってきた 「レモネードになります」 温螢は私の前にレモネードを置くと、半歩後ろに下がった 出されたレモネードを一口、口に含む ………薄い いつもサーシャが入れてくれるレモネードは、もう少し甘く、それでいてしつこくない 「温螢」 「っ、はい。なんでしょうか」 突然名を呼ばれた温螢は少し動揺しながらも私を見る 「今日、サーシャは?」 「サーシャ………? あ、マスターでしたら本日は急用とのことです」 「そう………」 沈黙が訪れる 温螢は気まずそうに目を逸らす 「依頼はあるかしら?」 「あ、はい。依頼でしたらこちらになります」 温螢は先程持ってきた紙を私の前に置く 人里に降りてくるようになった魔物の討伐 薬の原料となる草の収集 ………………等々 つまらないものばかり 「じゃあ、これとこれと………これにするわ」 私は三枚の紙を指差して言った 「みっつも、ですか?」 温螢は不思議そうに聞いてくる 「えぇ。みっつよ」 温螢は戸惑いながらも三枚の紙に《受領者:凰舞桜》と記し、掲示板に貼った 「ありがとう、温螢。今日も仕事お疲れ様。段々様になってきたじゃない」 私は温螢に軽く笑みを向けると立ち上がった 「あの、どうして俺のこと………」 不思議そうな温螢を、私は真っ直ぐ見つめる 「サーシャが、いつも教えてくれるの。最近入った温螢って奴がすごい優秀で、まだ二日なのに仕事もすぐ覚えちゃったからもう店に出せるって。そう言ってた。この間、見かけたときに教えてくれた。あいつが温螢だよ、って。カクテル作るの上手だったわ」 温螢は驚いたように目を丸くする 「じゃあ、戻ってきたら温螢オススメのカクテルを入れてくれないかしら」 「かしこまりました。精一杯作らせていただきます」 「楽しみにしてるわ」 そこまで言うと、私は温螢に背を向けて酒場を出た 「サーシャがいないなんて、初めてじゃないかしら」 私の呟きは街の喧騒に消えていく それから約二時間後、私は酒場へ戻ってきた 「舞桜様、チェリーは苦手ですか?」 いつもの席に座ると、温螢が話しかけてきた 「いいえ。好きよ」 「よかったです。では、カクテルを入れますので少々お待ち下さい」 温螢はシェイカーにクレームドカカオ、生クリーム、マラスキーノチェリーを入れ、見事な動きでシェイクした それを綺麗にグラスに注ぐと、それを私の前に差し出した 「エンジェルキッスです。どうぞお召し上がりください」 私は恐る恐る口にする 甘くて美味しい 口に広がる甘味はしつこくなく、優しい 「美味しいわ」 私が言うと、温螢は嬉しそうな笑みを見せた 「いいセンスね。他にオススメはある?」 「オレンジは大丈夫ですか?」 「ええ。オレンジは好きよ」 「でしたら………」 続いて、温螢はウォッカとオレンジジュースをブレンドしたものを差し出した 「スクリュードライバーです。飲みやすいカクテルですので、飲みすぎにご注意を」 「見た目以上にゴツい名前ね」 そう言いながら、口に含むと、オレンジの酸味が口に広がった エンジェルキッスとスクリュードライバーを飲みきると、私は席を立った 「うん。やっぱり、あなたのオススメはいいものばかりね。今日はもう帰るけど、またお願いできる?」 「………はいっ!」 温螢は嬉しそうに頷くと、丁寧に頭を下げた 酒場を出ると、夕方の涼しい空気が頬を撫でる アルコールが回って少し火照った体にはちょうどいい それより、今日は何故サーシャはいなかったのだろう サーシャが酒場を離れるなんて初めてのことだったから、少し気になった サーシャの急用が、大きなことに繋がらないといいけど そう思いながらも、私は家のベッドに倒れ込む やがて、眠気に襲われ、意識は遠のいた
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