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あなたも生きてるだけで
その、言葉は。その ——名前は。
いくたびか、誰かの唇から、それまでついぞ聞いたことはなかった、
大事にむなうちに仕舞っていた溢れる想いを、留めきれなかったように、
まさに、こころに音をこめて紡いだ『歌』を、覚えずひそかに打ち明けるようにして、
いつもそれが響くと聞き逃せない、特別なことだまと想いがやわく弾けて囁かれていた、
その、"名前"ではないのかと。
目の前にいる、ただ憧憬ばかりを帯びていたその女が、覆っていたきらきらしい膜が滑り降りて、
いまは『はじめて』視る存在のように、私の網膜のうちに映じられて微笑んでいる。
「こんな風に言っていては、駄目ね。まるで、私の方が縋っているみたい。
私は、彼がいつでも外に戻ってきても構わないように、置いてきた、失っていたものを"元通り"に彼に戻して、渡してあげなければいけないのに。……これ以上、彼が負担に受け取ってしまうようなことだけは、したくないの。
そう。たとえ、彼の心境が、いかに変貌を遂げてしまったとしても。
……彼は、もう充分に苛んで自分に責め苦を浴びせ尽くしている。『外』の私たちの世界の方が、刺激が多くて移ろいが起こりやすいように思えるけど、 それは、『なか』のあの人たちだって、そうだと思うのよ。
いつまでも、"私の知っている"彼のこころを、彼がそのまま保ち続けているものなのだと、無遠慮に、理想のように当然を重ね合わせてしまってはいけない。
折れたり、——もしかしたら私の届き得ないところで、救いになるような色や、安らぎを覚えることだって、充分あり得るのよ。……そこを遮ることまでなんて、求められない。
……ひとのこころって、信じたいけど、フィルムを透きとおした虹彩みたいにつよくて確かでもあるんだけど、
同時に、脆くって、儚く漲って掻き消えて仕舞うものでさえ、あるでしょ」
「…………」
「これは、あくまで行きずりの私の場合の話だと思って、聞いてね。有難う。
……でも、もしかしたらあなたもその大事なひとに抱いている想いと、通うものがあるかも知れない。
——それでも構わないの。たとえ、彼の見る景色が変わってしまって、彼のこころのなかに、私では補えない尊くてふれられないものを住まわせてしまったとしても、
結局のところ、どうしたって…………、」
きっと、彼女と『彼』は、互いを生涯の伴侶として認め、固くその未来を共に歩むことを、聖らかに誓ったに違いない。
それだのに、自分へ確かめるように言葉を繋げて、私を認めた彼女の顔は、
頬に添えた左の薬指に煌めきの気配を添わせ、
はじめて恋を知った少女さながら、その瑞々しさが面映ゆいほどの、可憐な微笑みのそのままだった。
「私は朔君を、信じているの」
『そんなに、"大した"もの?』
『奪れそうだって、思うんだよ』
『あのひとを、 連れてく訳にはいかない』
じわじわとまた、瞳の縁にあつ苦しいものが湧き上げてきて、
それが増すたびに目の前に在るそのひとの瞳が、驚きと慮りで見開かれる。
「まあ、どうしたの……。ごめんなさいね。きっと、くるしいことがあったのだろうに、こんな話をして聞かせてしまって。
嫌ね。他人の話でも、こころを持って行かれて、つらいわね」
またそのひとが添ってきて、泣きたくなるような佳い香りと、優しい指と掌が背を宥めるように撫でてきて、
涙が零れ落ちそうだったけど、かろうじて留めて首を振って、あえぐように口から出していた。
「……わた、しの、 兄は…………っ」
初めて明かした存在に、直ぐ先のその瞳が、真摯な色で揺らぐ。
私の大事に想っているひと。
でもそのひとは、貴女がいのちと同義だと、どのような不変の綻びも厭わないと、それほどに愛しんでいて、
いまなお恋い信じ続けている、ただひとりの大事なその『ひと』のことを、
"奪う"ことを、願ってしまっているかも知れないのに——。
「もう、『確定』しているんです……っ……」
何故それを、明かしてしまったのだろう。
兄の憂き身を押しつけて、許しを認めざるを得ない、憐れみに乞うつもりだったのか。
そんな筈はない。であるなら。どこまでも慈愛に満ちて、聖いつよさを失わないこのひとに、——兄の焦がれを増す、きっと一端であるかも知れないのに、
兄の不遇への嘆きを、いっそ甘えて慰められてしまいたかったのか。
一体どこまで、幼稚でおこがましい自分なのだろう。
「まあ、そうなの…………、つらいわねえ。どうしてこんなつらいことを、用意するのかしら。
あなたのお兄さんも、つらいわねえ。こんなに可愛い妹さんを、外に置いて来なければいけないなんて」
きっと、兄の処遇の『真相』は認えていない。
そして見え透いた同情も、なにひとつ浮かべていなかった。
明度の低い涙は滲ませず、ただ悲痛に、私のこころにその手を重ね合わせようとする。
そのまごころがさらに私の涙を引き寄せる。
本当に、卑怯だ。涙を流しながら、その涙のいきつく先は、どうしても、
—— やっぱり兄の想いが結ぶことを、希んでいるのだから。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
まだこんなに若く美しい。だのに溢れ出る聖母のような優しさと、おとなの包み込む薫りが、
どこまでも子供染みてさもしい私の罪悪感ごと、いつの間にか肩まで抱きしめてくれていた。
「謝ることなんか、何んにもないわ。いいのよ。あなたは、それでいいのよ。
そうやってそのひとのことを願って、 ただ生きてさえいるだけで、いいのよ。
そうでなきゃ、いけないわ。どうしたって、そうでないといけないのよ、」
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