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案内人と注意事項
逃げた、負けた、しっぽを巻いた。
そんな重い気持ちを抱えながら、澤谷美桜は待ち合わせの駅前に立ってやっと、詰めていた息を吐き出した。
少し早く着いてしまったけれど丁度良かった。
心を落ち着けて、立て直す時間があったほうがいい。
電車に揺られているうちに小雨はあがって、濡れたアスファルトがキラキラと光った歩道に視線を落とした。
そこから立ち上る独特の匂いを吸い込んで、肩の力を抜いていく。
新しい自分になるんだ。
もう、忘れよう。
本来、呑気で、おっちょこちょいで。
大口を開けて笑える自分に戻るんだ。
気を抜けば泣きそうな自分を、早く手放してしまいたい。
高校を卒業してから、二十七歳になる今日まで。
今思えばずっと、張り詰めていた。
美桜はこれから、新しい職場に向かう。
住み込みの家政婦の仕事が見つかったのは幸運だった。
面接に行き、家事のスキルや諸々で採用してもらってまだ二ヶ月。
臨時の家政婦としていくつか仕事をこなした。
出来れば住み込みでと希望していたそれに、ピッタリの派遣先が見つかったのは僅か三日前だ。
「澤谷さん?」
駅に背を向けて立っていた美桜の背後から、男性が声をかけた。
ぱっと振り返る。
「はい、澤谷 美桜です。本日はありがとうございます」
「いいえー、こちらこそ迅速なご対応ありがとうございます」
名前は釘崎だったはず。
この男性が今から、美桜の派遣先まで案内してくれるのだ。
仕立てのいいスーツは濃紺で、淡いブルーのシャツに合わせたポケットチーフが爽やかだ。
「車を少し先に停めているので、こちらへ」
人当たりの良さそうな笑顔に会釈して、半歩後ろを歩いた。
歳は美桜より七つ八つ上だろうか。
(一回りとまではいかないだろうな)
実家の旅館で、次期女将として接客を重ねていた美桜は、風貌を見ればだいたいの年齢と、好みそうな浴衣が分かる位には人間観察が得意だったりする。
清潔そうにかり揃えられた項。
パリッとのりの効いたシャツ。
多分しっかりした接客で、少し大きなお金を動かす様な仕事の人。
「荷物はそれだけですか?」
美桜は小さな旅行カバン一つだ。
一泊二日ほどの量に見えるだろう。
「ええ、後は送って貰おうと思ってます」
「ああ、なるほどそうですか」
釘崎は、その小さな鞄と美桜を後部座席に促すとドアを閉めてくれた。
運転席に座り、スムーズに車を発進させる。
車は雨上がりの道路を、高速に乗る為に走り出した。
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