キヨム

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再び冬が近づこうとする夜。 寺裏の家を出ようとした僕を、案の定呼び止める声がした。 「どこ行くの」 見つかるとしたら彼女しかいない。 ふみの片耳には、イヤホンがささったまま。 安部公房の朗読が流れ続ける。 「どこへ行くの」 もう一度聞かれた。 「ここ以外のどこか」 「なんで」 「なんでだろう。  これまでもずっとそうだった。  こうやって去ることしかできなくて」 「何言ってんの!」 ふみは声を押し殺すのもやめて怒鳴った。 上階で物音がする。 イツルも、もしかしたらくうも起きたかもしれない。 「僕は、ここにいちゃいけないかもしれない。  みんなが僕を思ってくれても、  僕はみんなを思えない。  ありがとうとも言えない」 「嘘でも言えばいいのに」 「余計に傷つけるよ」 彼らは互いの嘘に敏感だ。 幸福なニンゲン(ホモ・サクセス)たちは取り繕うということをしないから。 自分たちだけが明らかに違う。 それを感じ取るのだ。 「ねえ、あんたが出て行ったら、  あたしたち傷つくから」 「一緒にいる方が失望させる」 「それは嫌なの?」 「いやだよ。  君たちは優しいじゃないか。  もう十分過ぎるほど傷ついて、  苦しんでいるじゃないか」 「傷つけたくない?」 「傷つけたくない」 「ねえ、そう思うほどには、  君は、  何にも無関心じゃなくなっていると、  気づいている?」 いつのまにか、朗読は終わっていた。 「きよちゃん?」 くうが、階段を半分だけ降りてこちらを伺っていた。 「明日、図書館行く約束」 「ごめん」 「一緒に行くって…!」 「ごめん」 くうは泣き出すかと思ったら、ふらふらと階段を降りてきた。 肩がひくついている。 「なんで約束破るの」 君たちと同じだと思ったのに、違ったから。 「約束したのに!」 「くう!」 イツルが手を伸ばしたけど遅かった。 ふみを突き飛ばして。 僕に飛びついた。 「行かないでよ!」 声が。 まるでいつものくうじゃない。 癇癪だ。 宥めようと伸ばした僕の手に。 くうが。 噛みついた。 「痛い…!  くう…!」 思わず叫んだけど、くうは聞こえていない。 鋭い歯が皮膚に食い込む。 その下の骨との間で圧迫されて、皮膚が裂ける。 「落ち着け!」 イツルがくうの首に腕を回して引き剥がす。 「引っ張って!」 ふみが僕の腕を引っ張って、ようやくくうが離れた。 「なんで!なんで!」 うわごとを言いながら血まみれの歯を剥き出しにする。 この子の満腹中枢は、別な人間に接続されてしまっているのだろうか。 それか、全人類の。 僕でもあるかもしれない。 ふみがくうに薬を飲ませる。 液状の薬を舐めてしばらくして、ようやくくうは身体を弛緩させた。 夢を見ているかのような、虚ろな目になる。 「ふみ、くうを頼む」 イツルが、噛み跡のついた僕の腕を掴む。 冷たい。 思わず顔をしかめてしまった。 いつもなら反応しないようにするのだが、そんな余裕はなかった。 イツルも、僕が寒がったところでその手を離しはしなかった。 「消毒するからこっちきて」 その冷たい手で処置されるのを、くうを抱えたふみはずっと見張っていた。 「くうを泣かせたこと、許さない」 「ごめんなさい」 「傷つけたくないなんてひどい嘘だ」 「それは、傷つけるつもりじゃなかった」 「くうにとって潔君がどんな存在か、  分かってないからそう言えるんだよ」 毎日のように一緒に過ごして。 空腹が襲いかかるとそっと守ってくれる。 眠るまでそばにいてくれる。 「くうだけじゃない」 イツルがポツリと呟いた。 その声に、ふみを見ると。 深いクマの目が、真っ直ぐに睨む。 「私だって、イツルだってそう」 「怖かったんだ。  僕の中に大切なものができたら、  それを失うのが怖い」   ああ。 どうして俺なんだ。 どうして救われるのが僕なんだ。 僕は苦しくなかった。 空っぽで、何の苦痛もなかった。 僕よりずっと、彼らの方が苦しんだ。 それがどうして、彼らは与えられず、僕が救われるんだ。 彼らが僕を救ってくれたのに、何も返せないなんて。 握った拳が震えていた。 僕が空っぽじゃなくなった証だった。 終
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