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文通に添えて送られてきた滝の写真。葉月が実物もみたいと言ったことがあった。些細な出来事を覚えていてくれたことが嬉しかった。
「いいよ。ありがとう」
「それともう一つしたいことがあるんだけど……」
「うん。どうしたの?」
「……よかったら、僕を絵で描いてくれない?
もちろん、無理はしなくていいんだけど」
想定外の台詞に葉月は即答できなかった。父親を刺して以来、描けなくなっていた絵。まして穢れた手で大好きな人を描くなんて、失礼な気がした。
「ごめん、それはちょっと無理かも。私が絵を描いたら、モチーフになるものに失礼だから」
「失礼なんかじゃないよ」
「でも人を刺した右手で、紫輝くんを描くなんてできない」
葉月は断った。絵の趣味は諦めている。今さら美術大学に行くこともない。葉月はもう一度謝ろうとした時、紫輝が唇を震わせた。
「葉月さんの手は人を傷つける手じゃないよ。大切な人を守るための手なんだよ。葉月さんとの数々の文通。葉月さんの右手で作り上げた文字にどれだけ救われたか分からない。きっと睦希くんだって、何度も何度も葉月に救われているよ。そんな優しい葉月さんが、作り出す絵に温かさはあっても、穢れなんて微塵もない」
普段大人しい紫輝が、強く語ってくれた。睦希も紫輝も葉月の罪を悪く言わない。十字架を背負っていくべきなのに、二人とも十字架を降ろそうとする。
「……自分の描いた絵に納得はできないかもしれないけど」
「それでも結局は、描きたいか描きたくないかじゃない? ずっと絵を描くのが好きだったのにもったいないって」
絵を描きたい気持ちは山々だった。睦希も紫輝も沙月も、心を浮き彫りにするのが、上手だと感じた。心を簡単に踏み躙る人もいれば、傷ついた心を救ってくれる人もいる。葉月は紫輝を見てそう感じた。
「……下手でもいいなら」
「全然大丈夫。葉月さん絵なら何でも上手だよ。葉月さんのような綺麗な心の人なら尚更」
紫輝は歯を見せて笑った。ずっと諦めていたのに、紫輝には不思議な力がある。
「ありがとう。紫輝くん」
礼を言って、葉月と紫輝は再び目を瞑った。震えて眠ることができなかった日々。そんな葉月が、初めて人の家で熟睡することができた。
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