ひだまりの虜

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マスターの不思議な雰囲気に飲まれて呆然としながらも、僕はその誘いに好奇心を抑えきれず、言われるがままに翌日の昼前にカフェを訪れた。 「いらっしゃい」 昨夜もあまり眠れなかった。 ただ、寝不足の頭の片隅で、今日これから何が起こるのか、わくわくしていたのも確かだった。 それに、彼の掌のおかげで少しすっきりしたせいか、昨日までの不快な感情も(しず)まっていた。 ランチをご馳走になり、マスターは食後にコーヒーを()れてくれた。今日はモカ・マタリだった。 モカは普段あまり飲んだことはないが、フルーティーで爽やかな香りが、寝不足の気だるさを和らげてくれるようだった。 彼は僕の向かいの席に腰を下ろし、自分のコーヒーをひとくち(すす)った。 僕もカップに口をつけた。 ワインのような香りの中に、チョコレートにも似たコクがあって、後から(ほの)かな甘味も感じられる。 好きになりそうな味だ。 「こんな話を聞いたことがありますか」 マスターは(おもむろ)に話し始めた。 「人が一生のうちに口に出来る食べ物の量は、だいたい決まっているみたいなんですよ」 「…そうなんですか。初耳です」 それが僕と何の関係が… 「小さい頃に貧しくて食べるものに困っていても、大人になって成功するとか、パートナーに恵まれて食生活が豊かになったりとか。 まあ、ほとんどの人の場合は、歳を取るにつれて消化機能が落ちますからね。食べ盛りを経て、自然と量も減っていくはずなんです。 それで(なら)されるみたいですね。 だから、そのコントロールが効かなくなると、病気になったり、寿命が縮んでしまったりすると言われています」 話を聞いているうちに、何となく彼の言いたいことがわかってきた。僕は居ずまいを正すと、彼の話にさらに耳を傾けた。 「睡眠も同じです。 一生のうちに眠れる時間は決まっています。 ただ、食事は自分の努力で増やしたり減らしたりすることが出来ますし、食べ物のことで困っている人は、周りの人たちも容易(たやす)く見つけられる。 一方で睡眠は、自分でコントロール出来ないことが、往々にしてあります。 たくさん寝ようと早目にベッドに(もぐ)っても、なかなか眠れず、結局いつもと同じ時間まで悶々(もんもん)としている、なんてことも珍しくはない。 何か悩みや病気を抱えていて眠れないのか、それとも『絶対的に』眠ることが出来ないでいるのか、それは(はた)から見ただけでは区別がつきにくいのです」 「あなたには、それがわかるんですね?」 「はい」 その笑顔は、僕をずっと待っていてくれたかのようで、僕の(かたく)なな心の(ひも)をあっという間にほどいてしまった。 僕はマスターにぽつりぽつり話し始めた。
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