1.その歌姫は、捨てられる。

1/3
1103人が本棚に入れています
本棚に追加
/174ページ

1.その歌姫は、捨てられる。

 私が一体何をしたと言うのだろう? と目の前の光景をまるで他人事のような心持ちで、エレナ・サザンドラは眺めていた。  自分の目の前に座っている気の毒になるほど萎縮して自信なさげに眉を下げ困り顔を浮かべている婚約者と、その彼の腕に自身の腕を絡ませてまるで悲劇のヒロインのような顔をしている妹。  そんな2人を見ながら、エレナは"私はどうすれば良かったのだろう"と、変えられない過去について考えていた。 「……エレナ、君との婚約を破棄したい」  静かに、だけれどはっきりと婚約者であるエリオットから発せられたその言葉はエレナの耳に届く。  耳の奥でこだまするその言葉を反芻しながら、どうして? とエレナは思う。 『どうして、私を切り捨てるあなたがそんなにも辛そうな声で、顔で、その言葉を口にするのか』  と。  エレナは問いただしたい衝動に駆られるが、実際にはエレナの表情はぴくりとも動かず、ただぼんやりと言葉を発したエリオットの事を空虚な瞳に映すだけだった。 (泣きたいのは、私の方だ)  いくらそう思っていてもエレナの瞳からは涙ひとつこぼれない。泣く、という行為を含めここにいるエレナには何らかの行動を起こす事は何一つ許されていないことを文字通り身に染みて理解していた。 「お姉様、どうか分かって。これ以上、エリオット様を責めないで」  妹のマリナがハラハラと泣きながら、まるで婚約破棄に至った全ての根源はエレナであると言わんばかりにそんな言葉を投げつける。  バカな事を言わないで欲しいとエレナはせめてもの抵抗として心の中でつぶやく。  自分はこの部屋に入ってから一言も発していないし、なんなら出会ってから今に至るまで一度だってエリオットを責めたり非難する言葉を口にした事はない。  なぜならエレナにはもう、エリオット以外味方と呼べる人間はいなかったのだから。  幼少期に親同士が決めた婚約とは言え、少し気弱でいつでも誰にでも優しいエリオットは、自分には過分だと思うほど素敵な婚約者だとエレナは思っていた。  苦しい時も悲しい時もエリオットがいたから、今までどんな仕打ちを受けてもこの家で耐えてこられた。  いつか彼の妻になる。それだけがエレナにとって心の支えであり、唯一の救いだった。  そんな彼を自分が責める事などあるはずもない。エリオットなら分かってくれているはずだ。そう思っていた。 「いいんだ、マリナ。エレナの未来を奪ってしまったのは僕なのだから、責められて当然だ」  エリオットの言葉に驚き、エレナは初めて僅かに表情を崩し、紫水晶のような目を見開く。 (責めて……いる? 私が、あなたを?)  エリオットの言葉を反芻し、開きかけた口から声が漏れる事はなくエレナは口をつぐむ。 (エリオット様は、本当にそう思っているの?)  エレナはその言葉を信じられなくて、信じたくなくて、エリオットの真意を探ろうと紫水晶の瞳をエリオットに向ける。 (私は、あなたを守れてよかったと心から思っていたのに、あなたはずっと私に責められていると思っていたの?)  だとしたら、こんなに悲しいことはない。 (あなたが生きていてくれて嬉しいと、文字に綴った私の言葉はあなたの心に届かなかった?)  エレナと目が合うとエリオットの新緑のような瞳はたじろぎ、すぐさま目を逸らした。そこには今までエレナに向けられていた優しさなどカケラも残っていない。  信じたくないと思ったその答えはエリオットに聞くまでもなく明白だった。
/174ページ

最初のコメントを投稿しよう!