第1話

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第1話

      *  憂鬱な帰り道だった。  蕨野(わらびの)穂高(ほたか)にとってそれは、今日だけに限ったことではない。  軽い足取りで家に帰っていたのは、今の家に住み始めて最初の何日かだけだった。  それでも、今日の帰り道は特に憂鬱だった。  家に帰るのが嫌だというわけではない。むしろ家は、穂高にとって唯一と言ってもいい、心が休まる場所なのだ。  ただそれも、特に心を動かすことがないから穏やかでいられるのであって、自分の家を魅力的な場所だと思っているわけでもない。  今の家に住むようになって、まもなく六年が経つ。  大学進学をきっかけに上京し、卒業後も拠点は変えずに職場に通っていた。  しかし、その生活も今日で終わったのだ。  穂高は今日付けで勤務していた書店を退職し、明日から新たな職探しを始めることになる。  職場で何かトラブルがあったわけではないが、仕事にも人間関係にもどうにも馴染むことができず、なんとなく息苦しい毎日だった。  それが関係しているのかどうかは定かではないが、最後の出勤日となった今日も、送別会のような催しはなく、むしろ他の職員よりも少し早く帰ることになったのである。  書店はお店が閉まったあともとても忙しいから、穂高がいつまでも残っていたら、他の従業員に気を遣わせてしまう。  穂高もそれを十分わかっていたから、なるべく目立たないようにひっそりと職場をあとにした。  店長だけは見送りに来てくれたが、どうしたって寂しさはぬぐえない。
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