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知らず、入江は廊下の気配に耳を澄ませていた。
聞こえてくる硬い音。
カツン、カツンと刻まれるリズム。
玄関に、鍵は掛けていなかった。
足音がシームレスに室内に移り、元から敷き詰めてあったカーペットに吸収されて、ほぼ無音化する。
窓に背を向けて佇む入江は、おそらく逆光のシルエット。
まだ、寒々とモノの少ない部屋は、芝居の舞台めいている。
上手から登場した片脚の男は、ちょうどセンターのスポットライトの位置で歩みを止めた。
入江は無言だった。
笑ってはいない。
だが、残像としての小さな皺は、口もとにハッキリと刻まれている。
「新装開店、おめでとう」
型どおりにもほどがある一言を添えて、天馬が左手を差し出した。
――「花束」?
入江へと向けられたのは、黒に近いほどの深紅の薔薇だけを何十本も束ねたブーケだった。
「……なんだ、そりゃ?」
思わず入江が呟く。
「『何』と言われても、『開店祝い』の花束だが?」
そして天馬は、すぐに受け取ってもらえぬままのブーケを手近の机に置いた。
一歩、また一歩。
入江は天馬へと近づいていき、横目でチラと花束を見やる。
「イヤイヤ、『開店祝い』っていったら、もっと…こう、色やら柄やらがとっ散らかったパッと派手なモンを持ってくるハズだろ、普通?」
「気に入らないのか?」「まぁ、たいがいに渋すぎだな」
入江の答えに、天馬は両肩をすくめて見せた。
「ってか、『新装開店』ってなんなんだ。パチンコ屋じゃネェんだぜ」
「似たようなものだろう」「あ?」
「台を入れ替え、内装を変えただけで。やることは同じ」
「『ヤルことは同じ』だと? ソイツは聞き捨てならねぇな」
入江が不服を申し立てる。「ってか、完璧に『カタギ』の店だかンな、ここは」
「『表向き』は、完璧に。予想以上によくできているな」
杖を肘に挟み込み、パチパチパチと天馬がゆっくり拍手した。
「ホザいてろ」
また一歩、間合いを詰めて、入江が言う。
「だがまあ……確かに『今度のコト』は、オレもオマエさんに『乗せられた』トコロがあった…ってのは否定しねェがな」
そう。元々、限界は感じつつあったのだ。
昔のままの「有りよう」で、シノギを得ていく「未来」に。
この代紋も「オレで終い」だと。その覚悟は、もう随分前から心にあった。
けれども、もうしばらくは……。
オレの足腰が立たなくなるくらいまでは。
この程度の小せえ世帯ぐらい、なんとか取り回していけるだろうと。そう思っていた。
ここにも、そこそこ長く住んだんだ。
「愛着」のひとつも「ない」といえばウソになる。
ひょっとしたらオレは――
決断を「先延ばし」にしていただけなのかもしらん。
「若い連中」だって、「再出発」は早けりゃ早い方がいいに決まってる――
「『代紋』は、邪魔だろう?」
不意に、入江の思考に捻じ入ってくる天馬の声。
「まあ……な」
思考の中の声なのか溜息なのか、音になった声なのか。
自分自身でも曖昧に区別がつかないひと言を、入江が洩らす。
「先代には申し訳ネェことこの上ないが、ぶっちゃけ『そう』だ。今じゃ何をやるにしても、ヤクザの看板が……どうにも鬱陶しくてならねぇ」
ご時世ってヤツだな……? ったく、と。
かすれてボヤける入江のウィスパーボイス。
「そうだ、『法律』が敵になる。お前たちは『狙い撃ち』だ。暴対法が動き出した時、ピラミッドの上の連中は、結局『逆らうべき時』を逃した。もう取り返しはつかない」
「ってったってどうせ、『大きいヤツら』には、まだ逃げ道があるってコトだ」
そうボヤいて首を振り、そして入江は、また笑う。
「極道だけじゃネェな……今じゃどこでも、どの世界でも『そんなモン』だろ? デカくて力と金が既にあるヤツらの間だけで、旨い汁のやり取りさ。むしろアイツらは、どんどん羽振りがよくなっていやがる。潰されンのは、オレら下々だけってな?」
「『暴力団』とみなされる事による不具合は、今やあまりに大きすぎる。表立って『ヤクザ』でいる事には、もう、ほぼメリットがない。だから力のある組織は、巧妙に深く潜っていく。地下深く、目の届かない場所に」
「そりゃ、脱税も隠し資産も、デカいヤツらの方が『打てる手』が多いし『得』も大きいからな」
「だが、ヤクザの『本質』はなくならない」
一歩、天馬が前に出る。
「その『必要性』もなくなりはしない……たとえ『暴力団』という組織が目に見えなくなったとしても、『警察に頼れない』トラブルが世の中から消え失せることはない」
また一歩、天馬が進んだ。
入江との距離は、ほぼゼロになる。
「入江誠。これでお前を、私の手の届くところに置いておける」
「『手の届く』……って、アンタ、なに言ってんだ? 気味悪ぃだろ、なんなんだよ」
それでもまだ、入江は口もとに、あの「人タラシな笑み」を浮かべていた。
その乾いた皺を見つめながら、天馬が言う。
「結局、赤羽は、お前が『仕切る』しかない。それは自明だ。だが」
「……あ? 『だが』?」
「もはや『代紋』は、お前にとって足枷でしかない。『ヤクザでいること』の旨味が減り続ける限りは。だから結局、『こうなる』しかなかった……それに、これでもうお前も、『物真似』を続ける必要はない」
「オイ! だから何言ってんだ、さっきからバカにしてンのか?! ってか、勝手にオレの決めつけはヤメロや!!」
「『馬鹿』じゃない。入江。お前は馬鹿じゃないだろう? お前は『バニラ・サンダー』だ」
「またそれかよ?」
深々と長い溜息交じりに吐き捨てて、入江が俯く。
すると、その顎が、天馬の長い指先で摘み取られた。
「入江、馬鹿の『真似』をする必要もない。エラリー・クイーンを知らない『真似』も、『学のない』真似も……そして」
天馬は入江を掴み取る指に、さらに力を込めてこう続ける。
「『ヤクザ』の物真似も」
入江がひとつ瞬いた。
「……オマエさぁ、さっきから、近ぇよ。距離」
しかし天馬は、僅かも動かない。
「なんだ、オイ? またキスでもするってのかよ」
「キス? 今回、お前になにか『礼』をすべきことでもあったか?」
真剣な面持ちで天馬が呟いた。
そしてふと、思いついたように、
「ああ、褒美か? 『ご褒美』が欲しいとねだっているのか? 入江」と続ける。
刹那、入江の腕が伸び、机の上の花束を引き掴んだ。
そのまま、天馬の顔を薔薇で殴りつける。
重い音がして赤黒い花弁が舞い散り、ひどく気取った匂いが立ち込めた。
茎に残っていた棘が、天馬の高い頬骨と刀身めいた鼻梁に幾筋かの傷をつける。
滲む血の色は、花弁と瓜二つだった。
それでも、天馬の姿勢は、定まり切った体幹を微塵も揺らがせることがないままで。
隻脚の男は、ただ、まっすぐな首筋で佇み続ける。
腹いせに「つき飛ばしてやれ」と、入江が天馬の肩口へと手を伸ばす。
その手首が捕らえられて――
――キス。
今度は、いきなり舌がねじ入れられた。
入江の内側は捏ね回され、絡め取られる。
天馬のスーツの生地。なめらかな指ざわり。
顎に頬に、触れてくる天馬の指先の冷たさ、繊細さ。
押し付けられる身体、腰。
入江は、その体温を感じ取って――
けれども激しく首を動かして、キスを振り解いた。
「こ…の……っ変態…め」
かすれた声で息を詰まらせる入江に、天馬はただ、小さく肩をすくめて見せる。
次の瞬間――
イラ立ちと戸惑いと、そのほか様々な感情が溢れ出し、入江の怒りが沸騰した。入江は天馬の左足を横から払って引き倒し、床の上へと仰向けに押さえつける。
「オイ、なんなんだ! なんでこんなウザ絡みしてくンだ? なんで……オレに構いつく?!」
なんでオマエは――
知ってるんだ。
――消し去ったオレを。
もうどこにもいないオレを。
なんで。
込み上げて止まらない何かに突き動かされながらも、入江は天馬の瞳から目が離せない。
天馬の、そのとてつもなく整った顔を。
見つめて。
見つめて、見つめ続けて――
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