『未来でまた会うその日まで』

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 「おはよう、猫ちゃん。今日で終わらせて来るね。」 試験会場へと向かう駅までの道すがら、歩く自分の前に落ちたまあるい影に、顔を上げる。電信柱の上で、のんびりと身体を丸めた灰色の猫が、「にゃあっ」と私に応えるように鳴いた。  一時間の試験が終わり、解答用紙が回収された。 手応えはまあまあだった。解答用紙が回収される時、「今回は行けるかもしれない」、そう思った。  帰りの電車の中で、二択で迷ったところを携帯電話で調べるのはいつもの流れ。震える指で、検索窓に単語を打ち込んで、検索ボタンを押す。ここで、二択を外すのもいつもの流れ、だった。だけど。 ➖今日は、いつもの流れじゃなかった。 最後まで悩んだ二択から、正解の一択を、私は引き寄せていた。  今回は本当に行けるかもしれない、ちょっと浮かれ気分になりながら家に帰り、早速自己採点をした。 合格点は200点満点中の160点。難化しても、いつでも揺るがない8割合格。まだ協会からは模範解答は発表されていないから、調べても、それが正解なのか間違いなのか分からないところも少しだけあった。引っ張り出した裏紙にマルとバツをつけていきながら、得点を計算する自分の指が震えていた。 大問ごとに得点を足していく。足し算の結果は、159点と161点。調べても正解なのか間違いなのか分からないところが合っていれば、二点プラスで合格だった。 ずっとずっと、何年も頑張って来た努力が、ようやく身を結ぶ。そう思った。ようやく、神様が私を見てくれた。ようやく、許される。そう思った。 ➖だけど。  約一か月後、郵便受けに投げ込まれていた封筒は、小さかった。 郵便受けの蓋を開けた瞬間、〝落ちた〟➖そう悟った。もう結果は分かっているのに、震える指で、封を切り、結果通知書を取り出した。得点は159点。〝あの〟問題は、合っていた。なのに、届かなかった。あと一点は、〝突き出るべきところが突き出ていない〟、自分が、そう勘違いして覚えていた、僅か一問の別の問題だった。死に物狂いで、その漢字を検索した。自分が突き出さずに書いたことは、覚えていた。だから、マルがついていないということは、突き出るべきが正解なのだということも、分かっていた。それでも、もしかしたらどこか一箇所では、突き出さなくても正解なんじゃないかと、参考書には突き出さずに書かれていた気がして、インターネットも、二冊の参考書も、検索方法を少しずつ変えて、ひたすら、調べた。何回跳ね返されても、裏紙に丸い滲みがぽたぽたと形を作っても、ただそれだけを信じて、ひたすら調べた。  家の者が寝静まった気配がして、私は手を止めた。 何を見ても、どこを見ても、結果は同じだった。 一生懸命頑張ったのに。参考書も二冊やって、二冊とも完璧にしたはずなのに。もう何度目の挑戦になるか分からないから、今度こそ絶対に受かろう、もうこれで終わりにしよう、そう思って必死に勉強したのに。何回跳ね返されても、何回頸を斬られても、絶対に受かる、もうこれで終わりにする、そう決めて、頑張ったのに。 私が、たった一つ、突き出すか突き出さないかというたった数ミリを勘違いして覚えていたがために、あと数ミリ突き出さなかったたために、 ➖あとたった一点が、届かなかった。 私はまた、許されなかった。 布団に身体をうずめて、声を押し殺して、私は泣いた。  翌日の月曜日。 試験に落ちたことを家族に報告すると、「いい加減受かりなよ」「遊びでずるずるとやって、お金の無駄」「勉強が足りないから落ちるのよ」と、そうまた言われた。 またいつもと同じ。そう言われることも分かっていた。家族が言うことが正しいことも分かっていた。 分かってる。私だって早く受かりたいのに。毎回毎回、一生懸命勉強して、一生懸命頑張って、本気で取り組んでいるのに。点数だって、少しずつ上がって来ているのに。 この数年、あと数点が、あと数問が、届かなかった。 あと一点が、あと一問が、届かなかった。 一問も解けないくせに、一問だって分からないくせに。何も知らない外野が口挟むなよ。馬鹿にされて、嘲笑されて、それなのに〝そうだよね、馬鹿だよね〟〝いい加減本気で取り組まないといけないよね〟とうんうんと頷いて、だから私は一ミリもへこたれていませんよって笑顔を顔面に張り付けて、私は家を出た。 本当は、一ミリどころか、いま自分が持っているミリがすべて、折れ切ってしまっているのに。  学校へと向かう通学路をトボトボと歩く。この通学路は、他に滅多に人が通らないから、私がいくら顔を下に曲げて歩いていても、誰もおかしいと思わない。そこからぽたぽたと滴が落ちて地面に滲みを作っていても、誰も不審に思わない。私が歯を食いしばって声を押し殺して泣いていても、➖誰も気付かない。  と、歩く自分の前に、大きな丸い滲みが落ちた。落ちた滲みの大きさに驚いて一瞬、歩を止める。大きな滲みは丸い形ではなく、私の方に細長く伸びていた。それが自分が落とした滲みではなく人の影であるということに、そこでようやく思い至った私に、頭上から声が差した。  「大丈夫ですにゃ?」 少し前にどこかで聞いたような声は、そう、語尾でかわいらしく噛んだ。 声に顔を上げる。そこに立っていたのは、あの日、2回前の試験を受けに行ったあの日、雨が降る帰り道で、〝あなたはきっと受かっているから大丈夫〟と声を掛けてくださった、あの老婦人だった。 「あの時は雨が降っていたのに、わざわざ道を教えてくれて、途中まで一緒に帰ってくれてありがとうね。」 おばあさんが柔らかく微笑む。目の前に立つ人物に、ちゃんと泣くのをこらえていた両目が、これ以上我慢することを私に許さなかった。あの時は私も道が分からなかったから、確実じゃないまま、おばあさんを〝勘〟で引っ張って行っただけなのに。堰堤が決壊した。 「ごめんなさい。あの日も、ちゃんと道案内出来なくて。試験も、あの日から、まだ受かれていなくて。」 三度目の正直も、もう終わってしまったのに。あの時こんなにも優しい言葉を掛けてくれたおばあさんに、こんな姿、見せたくなかったのに。おばあさんがふるふると柔らかく首を横に振った。 「➖でももうちょっとじゃない。あの日から、ずっと150点も超えているんだから。」 「でも届かないんですっ…!あと数点が、あと一点がっ……!」 「私は頑張ったのにっ…もう、許してよっ……!」 こんなこと言ったって、吐いたって、おばあさんには何も関係ないのに。おばあさんに迷惑をかけるだけなのに。 「➖それでも、何回刎ねられても、まだまだずっと諦めずに挑戦し続けているじゃない。」 「➖どうしても、合格したいんでしょう?」 おばあさんの言葉に素直に頷く。と、強く、そして優しく、おばあさんが私の背中を叩いた。 「じゃあまだめげちゃダメ!!!もうひと踏ん張りしなきゃ!!」 その言葉に顔を上げる。おばあさんが、目の前で微笑んでいた。 「私がああ言ったせいで、重荷に感じさせていたわよね。ごめんなさい。」 その言葉に今度は私が首を横に振る。私はあの言葉のおかげで、本気で頑張ろうと思えたから。 おばあさんの目を見る。 「おばあさんとの約束、絶対に果たしますから。」 「だから、」 「試験に受かったら、また会いましょうっ」 目を瞑って叫ぶ。  その時、強い風が、目元を通り抜けた。風が、頬に残っていた滴を吹き飛ばす。風が通り抜けた後で、「にゃあっ」とどこからかかすかに声が聞こえた気がした。 顔を上げる。 電信柱の上で、あの灰猫が、のんびりと身体を丸めていた。 視線を前に戻し、通学路を走り出す。 未来の自分が、道の先で、待ってくれている。
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