お葬式の多い人生

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お葬式の多い人生

 奈々子が小学校3年生の時に、大家さんだったお祖母ちゃんが亡くなった。  まだ、ほんの子供だったし、お葬式にはいかなかった。  でも、大家さんのおうちは奈々子のおうちが借りていた家と床続き。  その日ばかりは大家さんの家への仏間を通らないよう言われた。  ただ、借りていた家のトイレは大家さんの家の仏間の前の廊下から外に出ないと行かれない。  たしか、その時は近くにあったバスの停留所にトイレを借りに行っていた覚えがある。  お葬式が続き始めたのは奈々子が高校生のころからだ。  奈々子が高校2年生のお誕生日に母方の祖父に久しぶりに会いに行った。  祖父は大層喜んで、ご機嫌でいたが、その晩心筋梗塞で病院に運ばれ、そのまま帰らぬ人となった。  奈々子は高校の制服で葬儀に向かった。  その後、若い人の死が続く。奈々子が東京の大学に進んだ後だった。  5歳年下の従兄弟が高校1年生で交通事故で亡くなった。  叔母が東京から離婚して実家に戻って、奈々子の家でしばらくは暮らしたこともある従兄弟だった。  従兄弟は夏休みに部活動をさぼって友達と少し離れた町のプールに自転車で行った。  その帰りに通学距離によってはバイク通学OKの高校だったので、自転車の従兄弟は田舎の坂道がきつくてバイクにつかまって上り坂を上り、途中でタイヤが接触して道路の端に飛ばされた。  運悪く側溝があってそこに前輪がはまり従兄弟は自転車から飛び出しコンクリートの電柱に頭から突っ込んだ。  身体は頑丈だったので、何度も心臓に電気を通して蘇生させたが、脳の損傷がひどく、もし、生存できたとしても前脳を損傷しているので性格が変わる可能性が高いことを叔母は告げられる。  3日間、若くて健康な心臓は何度も止まり何度も電気ショックで動かされた。叔母は、もうやめてくれと医者に頼んだ。  事故の連絡から5日後に従兄弟のお葬式が行われた。  そこからは、本当に追いかけるようにお葬式が続いた。  その後、奈々子が29歳の時に父が亡くなった。59歳。癌だった。  前のお葬式から10年が経っていたが、奈々子の年で身内のお葬式が3件もあるのは多いなと思った。祖母は逆縁の不幸をされたと言い、大層嘆いた。  10月だったのに葬儀の途中から大雪になり大層寒かった。  その後奈々子が31歳の時に母方の祖母が亡くなった。老衰だった。  穏やかな祖母で、小さい頃は奈々子と姉はよくこの祖母と遊んでもらった。  そして、奈々子が33歳の時には父方の祖母が亡くなった。狭心症の発作だったらしい。祖母は普段は家の近くの施設にいたが、病院に行く日だったので、前に出てきた亡くなった従兄弟の母である、父方の叔母の家に泊っていた。  祖母は 「調子が悪くて朝ごはんが食べられないから病院に行く支度をしている。」  と言って、叔母はそのまま朝食を終え祖母に 「そろそろ病院に行く?」  と聞きに行くと、祖母はベッドの上に正座したまま前に頭を落とし、亡くなっていたそうだ。  昔芸妓さんをしていた祖母らしく、最後まで化粧をきちんとしたまま亡くなった。  その後はしばらく落ち着いていた。  亡くなる親戚もそう数が多くないのだ。  田舎の人間にしては、父は3人兄妹の一番上。真ん中の弟を挟んで従兄弟を失くした叔母が末っ子だ。  母は二人姉妹の末っ子で母の姉とは8歳離れている。  奈々子が離婚した後に40歳のころ、父の弟が亡くなった。埼玉の草加市まで葬儀に行った。大変暑い時期だったので、日傘をさしながらお経を読んで貰っていたら途中から豪雨になり、散々な葬儀だった。  奈々子が49歳の時、パーキンソンを患っていた叔母が入っていた施設の見落としで熱中症になり、そのまま3週間、病院で意識が戻らないまま亡くなった。  奈々子は実家にしばらく帰っており、叔母の入院手続きや、毎日の見舞いなど、母と一緒にこまめに通っていた。  従妹は終末ケアはしないでほしいと言っていたので入院時に私が代わりに同意書にサインしたのに、叔母が危険だと医者が言うと 「なんとしてでも会いたいので生かしておいてほしい。」  と、医者に食って掛かり、サインした奈々子が医者に怒られた。  従妹は間に合ったが、奈々子は大変気分が悪かった。  叔母の葬儀は田舎の大農家なので親戚が多く、それでもしめやかに行われた。  奈々子が53歳の時に1歳下の母方の従兄弟が亡くなった。  まだ52歳。転倒による脳の損傷による死亡という事で、従妹一同、残された妻、姪は悲しむと言うよりも驚きで、葬儀の時も、自分たちの子供に負担をかけないための墓じまいの話などで夜を明かした。  父方の従兄弟たちは離れていたが、母方の従兄弟たちとは小さい頃から良く遊んでいたし、その中でも一番年下である従兄弟が亡くなったこと、その現実に眼を向けてしまうのが怖かったのかもしれない。  この時、まだ結婚していなかった奈々子の現在の夫も、亡くなった従兄弟と面識があったので一緒に葬儀に出かけた。ただ、事情を知らない親戚も来るので。と、その時ちょうど入院していた郡山の夫の父の病院にそのまま足を延ばした。  何という事か、夫の父はその夜に亡くなった。  奈々子はまだ結婚前ではあったが、もうその亡くなった義父にも義母にも紹介されていたので、現在の夫に呼ばれて葬儀に出ることになった。  今更結婚式もしないし、親戚との顔合わせに丁度良いと考えたようだ。そもそも夫の義父もうるさいことをいわず、いつもニコニコしているような人だったので、奈々子も行く気になったのだとは思う。  しかし、礼儀に外れていることは重々承知していたので大層居心地が悪かった。  夫側の親せきは皆気さくな人ばかりで、葬儀の席だというのに、 「いや~おめでとう。」  と言われ、大変恐縮した。夫が前の妻と離婚したことを親戚一同心配しており、新しく連れ合いができたという事でほっとした様子だった。  奈々子は続けて2件の葬儀にでた。  その後、奈々子は夫と56歳で結婚する。55歳の時に実家から東京に戻ったが、実家が忙しいときには手伝いにも行っていた。  実家が一番忙しい日、奈々子と夫はまもなく57歳になると言う前日から当日にかけて実家に手伝いに行き、無事に手伝いを終わって東京に戻った。  その翌日、奈々子に姉から電話が入り母が亡くなったことを聞かされる。  急性大動脈解離による心停止。もう、救急車に乗るときに瞳孔が開いていたと言うので急いで帰っても間に合わないが、とにかく奈々子と姉以外の身内は母にはもういないので大急ぎで夜中の高速を走って長野の実家に着いた時には夜中の1時になっていた。  母は生前から葬祭場に予約をしていたので、病院からも葬祭場の人がすべて手配して運んでくれ、実家も近いことから、人数の多い姉夫婦が実家に泊り、奈々子と夫は葬祭場に泊った。  葬儀の事はあまり覚えていない。疲れていたし、その後の実家の店をどう畳むかも姉と話し合わなければいけなかった。  何よりも、母が一番気に病んでいた、病気をして誰かの世話になりたくない。長患いで苦しみたくもない。という願いはかなっていたので、突然の死は悲しかったけれど、母にとっては良かったのだと思えた。  その後、コロナの渦中に母方の叔父が亡くなったが、葬儀はなかった。  奈々子は高校生の頃からこれまでに10人の身内を葬儀で見送った。  病気で長く患ったのは奈々子の父と、その父の弟の叔父だけで他の人たちは突然の発作や事故、または自分は意識のない間の死亡で亡くなっている。     奈々子はみんなの思い出を、追いかける、追いかける、忘れる事などできないので、静かに心の底に沈めていく。    やがて自分もたどり着くことになる死の淵まで、思い出を、追いかける。 【了】            
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