山のモノ

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「いいですねぇ……芳康君。君は随分と健やかに,想像以上に病んで育ちましたね。君は実の父親であるこの身体を見てもまったく反応しませんでした。君の父親が他所に別の家庭を築いていたのを母親は伝えていなかったみたいですね」  芳康は目の前の獣がなにを言い出しているのか理解できず,腹を開かれた母親が死んでいるのか生きているのかさえわからない状況に混乱した。  理解できているのは,自分が腰を抜かし身体が動かないことと,母親が全裸で男に喰われていることだけだった。 「な……なにを……?」 「君の父親は別の家庭でもやらかしましてねぇ。居場所を失ったので,君たちがいるこの家に帰ろうと何度も母親を訪ねていたんですよ。その行き帰りに必ず神社でお参りをして。僕に願いをする人間なんてもういないと思ってたのに」  芳康にとって目の前の獣は記憶のなかにある父親の姿とは別人だった。父親はもっと堂々としていて,常に強い言葉を使う人だった。 「そんな君の父親の心が今日,ポッキリと折れたんです。君の母親はこの家を売って引っ越すことを決めたそうですよ。君がこの夏高校最後の大会に出て,高校を卒業したら」 「え……? なに,それ……?」  男が首を傾げると,大きな瞳を細めて芳康を見た。 「ほんとうに君の両親は君になにも伝えないんだねぇ。君の父親は心が折れたその日に僕のところにきて願ったんだよ。かかわるすべてを壊して無にして欲しいって」 「え……?」 「まるで人間たちが僕たちの世界を壊して無にしたように……今度は自分たちを壊してくれって……」 「なにを……なにを言ってるんだ……?」 「だから,君の父親には僕から交換条件を出したんだ。若くて僕を視える君をくれたら,すべてを壊してあげるって。当然,父親自身もね」  獣は小さな牙を見せて笑うと,鋭い爪で横たわる母親の腹から子宮を摘み上げ,喉を鳴らして呑み込んだ。 「僕は約束は守るよ。君をもらう代わりに君の父親がかかわる人間全員を綺麗に健やかに完璧に壊してあげる」 「いったい……なんなの……なにが起こってるの? こんなの現実じゃない……目の前にいる獣みたいなのは神様なの……?」 「ふふふ……僕たちからすれば獣は君たち人間なんだけどな……でも,まぁ,約束は約束。みんな壊してあげるから,芳康君,君はこれから長い年月をかけて憑代(よりしろ)となるから,よろしくね」  獣はゆっくりと立ち上がると,四つん這いになって全身の毛を(なび)かせて窓から外へ飛び出した。吐く息が黄色く夜空に舞い上がり,身体が霞のように散り散りになると,細かい粒子が風に乗って町を覆った。 「何もかも人間に奪われた。小さな命すら存在することを許さない人間。これから僕がみんなを侵蝕する。みんな僕を吸い込んで苦しんで死ぬといい……」  部屋に残された芳康が苦しそうに喉を押さえ,不自然に身大きく膨らんだ身体の穴という穴から細かい粒子がこぼれ落ちた。  粒子は小さな命となり,風に吹かれて土へと返り生物となってゆっくりと拡がっていった。
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