産声

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産声

1  今日も18時に仕事が終わった。シフト制だし、パートとして働いているのでそれは当たり前なのだけれど。  藤本菜穂(ふじもとなほ)。32歳、スーパーで働く女性。この説明からも、特筆した個性や情報は無い。じゃあプライベートはどうなのかというと、付き合っている異性もおらず、何か目標があるわけでも無い。強いて言うなら、一人娘である私に対する親のプレッシャーが最近凄いので、良い人がいたら結婚したいと考えているくらいだ。  唯一結構な頻度でやっていて、打ち込んでいる趣味と言えるのは、SNSだった。  このSNSも、昔から付き合いのある友人達と繋がっているとか、ゲームとかアイドルが好きでそう言った趣味嗜好を持つ人達とコミュニケーションを取るだとか、そんなしっかりとした目的がある訳でもない。  ただ、日々の仕事のストレスや将来への不安、現在置かれている状況に対するコンプレックスを発散する為に開設して、様々な愚痴を度々投稿しているだけのアカウントだった。フォロワーだって数十人しか居ないし、話す人も居ない。目の前に黒板があるから書いてみた、といったレベルの物だ。  帰宅し、いつも通り勤務先で買ったビールを開ける。目の前のテレビ番組を眺めながら、SNSに今日の愚痴を投稿する。 「またチーフが勤務中に肩を触って来た。本人は軽いスキンシップなんだろうけど、こっちからしたら立派なセクハラだわ」 と言った具合に。  この投稿に共感して欲しいとか、沢山「いいね」が欲しいとかそんな事は考えて居ない。友人にもあまり会わない私は、自分の思っている事をこうして吐き出せる場があるだけでも少しだけ気は紛れた。    何か、飲み足りないな。普段は一本しか飲まないのだが、今日は色んな事を考えてしまうので冷蔵庫にストックしてあるビールをもう一本開ける事にした。すぐにソファーに戻り、自分の中にあるモヤモヤを消し去るように、酒を煽った。  少し気が紛れて来たな、そう思った時目の前のテレビの中がわっと盛り上がった。どうやら、バラエティ番組の中で出演しているアイドルが笑いをとったらしい。  この子は・・・最近売り出し中の娘だろうか。色んな番組で見かける娘だった。正直、私はこの娘に対してポジティブな印象は持っていなかった。この女の子は、綺麗で若く、人気もあり最近では有名俳優との熱愛疑惑もある程にモテるタイプの娘だった。私に無いものを全て持っている。むしろネガティブな感情の方が大きい。画面を見ていると、自分の中のモヤモヤが増幅していく。この娘そんなに面白い?可愛いから芸人がチヤホヤしてるだけでしょ?アイドルが恋愛して良いの?それだけ人に愛されておいて、まだ誰かから愛されたいの?  こうなって来ると止まらない。お酒の勢いもあってか、私はまたSNSを開いていた。そして感情に任せるままに、そのアイドルの娘に対する思いを投稿した。 「今バラエティ番組に出てる◯◯って娘、顔は可愛いけど「私が主役でしょ?」って感じが出てて好きになれない。そもそも、アイドルなのに俳優と付き合ってるんだっけ?そういう裏面が隠しきれてない感じがする」  そして、そう書くと唐突な睡魔に襲われて私は眠りに落ちた。明日も何も変わらないんだろうな。 2  朝、枕元の振動音で起こされた。今日はいつも通りパートが入っているが、予定より大分早く起きてしまった。スマホのアラームの時間を間違えていたのだろうか、見るとまだ振動している。 「うるさいな」 アラームを消そうとスマホに手をとり、電源を付けると驚愕した。ホーム画面は、SNSの無数の通知で埋め尽くされて居た。    慌てて通知のバナーをタップする。何故?どうして急に?ページが移り変わり、目の前に一つの投稿が出てくる。昨日私が書いた物だった。  何故この投稿が?と思っていると、下の「いいね」欄で驚愕する。15238。それが私の投稿に付けられた数だった。更に、相当な数の拡散をされている。投稿を下にスワイプすれば、「分かる」「ほんとそれ。調子乗りすぎ」「この娘より可愛い子なんていくらでもいるよね」「◯◯ちゃんの悪口はやめて下さい」「嫉妬乙」と、様々な反応が書かれている。  そして自分のアカウントのページに戻り、慌ててフォロワー数を確認すると、昨日数十人だったものが、一晩で数百人にまで増えていた。  その日の仕事はまともに手が付かなかった。と言っても、私の仕事はグロサリー部門の品出しが主な物なのでそこまで影響はなかったけれど、商品棚の位置をド忘れしたり、チーフの指示がまともに聞こえなかった。ずっとSNSの事が気になっていたからだ。  19時にシフトが終わると、とにかく落ち着いた環境でSNSを見たかったのでいつも通りビールを買ってからすぐに家に帰った。  そして家に帰ってからもそわそわしてしまい、携帯を開いては閉じ、その気分を紛らわせる為にビールを何本も開けて飲んでいる時に、またしても見ていてテレビに出て来たお笑い芸人が気に入らず、SNSで悪口を書いた。 3  あれから一週間が経った。いきなりアカウントの規模が大きくなってしまい、最初は困惑すらあったが、その間も私は絶えず投稿を続けていた。  むしろ、今までに無い体験と高揚感から投稿の数はずっと増えた。最初の3日ほどはあまり普段書いていた愚痴などは投稿せず、お酒を飲んでいる時にテレビに出て来た芸能人に対しての反応を書き込んでいただけだったが、何故自分がSNSの使い方を変えなければならないのか疑問に思い、今まで通りの投稿を再開した。  この一週間で私のフォロワーは8000人にまで増えた。数十人しか居なかったのに、たった一週間で、100倍以上になった。  爆発的に伸びた最初の投稿から、私は「物申す人」の様なアカウントとして認知され、芸能人に対する投稿は勿論、普段のチーフに対する愚痴や、結婚しろとうるさい母親、大分前に同窓会でマウントを取って来た既婚者の同級生に対する悪口などを投稿しても、賛同してくれる人が増えた。  具体的には「NANAさんの投稿に毎回共感しかありません!」とか「世の中嫌な人しかいませんよね・・・」や「私もこの間一流企業で働く同級生に仕事を馬鹿にされたので凄くわかります!」など、色々な人から反応が来た。NANAとは、私がSNSで使っているハンドルネームだ。実名でやるのは気が引けるので、少し改変している。  とにかく、私は唐突に膨大な影響力を持ってしまったのだ。  1ヶ月経つと、私の生活やSNSの使い方はあの出来事から大きく変わった。今まではふとした時、衝動的に思った事を投稿していただけだったが、今ではフォロワーの反応が良い投稿をする様になった。「物申す」系だ。  時には、私の投稿を引用してネガティブな意見をぶつけて来るアカウントもあった。そうしたアカウントを逆にこっちが晒し上げて、大量のフォロワーに攻撃させたこともあった。  私のフォロワーは今や30000人を超そうとしている。このSNSというもう一つの地球で、私は王になった気分だった。  パートナーもおらず、孤独で将来に希望の無い藤本菜穂はここには居ない。私は、様々な人が抱える感情を代わりに披露し、世の中の溜飲を下げるインフルエンサーのNANAだ。王というよりも、神に近い。天にも昇る気分だった。  4    私は今、グロサリー部門の人達が売り場に出す商品を積むためのバックスペースで、冷や汗をかいている。何故かというと先程から同じ部門で働いている、同じパートのおばさん達の会話が私の精神を乱しているからだ。彼女達はなおも話し続ける。 「ねえねえ、最近SNSで話題の、NANAって人知ってる?」 「あー、いつも何かの愚痴言ってる人ね。私もついああいう事思っちゃう時あるけど、ああいう投稿が流れてくると嫌な気分になるわよねえ」 「本当よねぇ。しかも、私あの人の過去の投稿とか見てたんだけどね?」 「うんうん」 「職場の愚痴とか、上司の愚痴とかの内容が、どう見てもスーパーで働いてる人の内容なのよ!ああいう事を考えてる人がうちにもいるかもって考えたら、嫌よねぇ」 「もしそんな人が居たら、辞めてもらうしか無いわよねぇ」 「ねぇ」  動悸が収まらない。まさか現実の会話にまで登場するほど私が大きい存在になっていたとは思わなかった。  彼女達は私の正体がNANAだと特定までは出来てないようだけど、フォロワーがあれだけ増えたなら、私の過去の投稿からある程度私が普段何をしているか、どんな環境にいるかを想像出来ている人が居てもおかしくない。何なら、30000人いれば個人情報は投稿していなくても、内容から私と勘づく人もいるかもしれない。  迂闊だった。  そして、嫌な予感は当たってしまった。個人を特定出来る写真などはあげていないつもりだったが、洗濯する為に持ち帰ったパート先の制服の一部分が、前に投稿した家のご飯の写真に映ってしまっていたみたいで、「NANAはスーパーの◯◯で働いている」という情報があっという間に拡散された。しかも、その情報が発覚したのが私が働いている時で携帯はロッカーに預けてしまっていたので、写真を消すのが遅れ、消した時にはもう時すでに遅しという状態だった。  どうしよう、このままでは私の個人情報がバレるのも時間の問題かもしれない。職場だってまだ詳しい場所まではばれていないけれど、大まかな自分がどの辺に住んでいるかの情報はあまり隠していた記憶が無い。むしろ、フォロワーに返信する際にぽろっと漏らしてしまっている可能性だってある。  どうするのが最善だろうか。過去の投稿を全部消すか、アカウントごと削除するか。しかし私にそれが出来るのだろうか。このアカウントを削除してしまえば、私は何の価値もない、ただの藤本菜穂に戻ってしまう。  この世界では私はインフルエンサーであり、私の意見一つで人の人生を変える事だって出来るのだ。  気に入らないアカウントがあれば晒しあげてフォロワーを使って追い込めるし、やるかは別として現実で気に入らない人がいれば、その人の情報を投稿して実生活に影響を与える事だって出来る。  私を見下していた同級生も、セクハラをしてくるチーフも、NANAの悪口を言っていたパートのおばさんも、態度の悪い客だって、私の機嫌一つで形勢は変わるのだ。このアカウントがあれば誰も私に敵わない。  でも今ならまだ間に合う。個人情報を特定され、取り返しの付かない事態になる前に今やめてしまえば、少なくとも平穏な暮らしは確保される。私はそれなりに過激な投稿をしていたから、SNS上に私を嫌いな人もそれなりにいた。だから、特定されればただじゃ済まないことは分かっていた。今なら戻れる。SNSを辞めて、自分の行いを見つめ直して真っ当に生まれ変わる事ができる。  どちらの「道」を進むか、選択する時が来たんだ。私は・・・ 5  私は次の日仕事を休んだ。もう行く気はないので、正確には辞めた。シフトを当日に放棄したので当然ながらチーフから携帯にメッセージが来る。しかしその通知すら、私のフォロワーの「声」にかき消される。  皆、SNSの上では自分を捨て、新たな自分として生まれ変われる。私を支持する人も、批判する人も現実に声を上げている人じゃない。みんなここに来て、新たな産声をあげて生まれ変わったのだ。  そして、私も生まれ変わった。いつも通りスマートフォンに向かって文字を打つ。 「インフルエンサーとして生きて行く事にしました。これからもNANAをよろしくお願いします」  声にならない声で作られた歓声が目の前のスマートフォンから上がる。3、24、86、180。どんどんと「声」は増えていく。  今日新たに、「私」が産声をあげた。  
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