料亭『岡田寮』

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料亭『岡田寮』

車はパッカードで、高級な部類に入るタクシーだ。それが隅田川を越え、向島に渡った。ここは古くからの料亭街で、辻々を楽器を抱えた芸妓たちが忙しそうに行き来していた。 長い板塀の続くそれは、古くある料亭のひとつで、俺も名だけは知っていた。門構えに『岡田』という屋号の入ったのれんをわけてなかに入ると、ふつうの屋敷の玄関と変わらない地味なガラスの格子戸があり、いつの間にかはっぴを着た小男がその戸を開けて奥に声をかけた。 「おつきでございます」 ここで帽子と靴を脱ぎ、帽子は待ち構えていた仲居に渡す。粕谷はステッキも仲居に預けた。まるで刀を受け取るように、仲居は恭しくステッキを受け取るもんだから、俺はちょっと可笑しくなってしまった。 「おや、ここは来たことがあるのかね?」 俺を見ながら粕谷がそう言った。 「いいえ、はじめてです。おやじに連れられここらの料亭には何度か。でもこんな敷居の高いところにゃ来ませんよ」 「それじゃきみもこんどはここをよしなにしてやってくれ」 こういう料亭は紹介なしじゃ入れてもくれない。粕谷が連れて来てくれたことで俺にその資格ができたと言いたいらしいが…。 「あいにく海軍の給料じゃこんなところは来れませんよ」 「まあそのためにもせいぜい出世してくれたまえ」 んなことは無理に決まってる。あと何年か尉官をやってのち少佐か中佐ですぐ退官だ。料亭なんかでかしこまってる時間なんてねえよ。 「春子は?」 粕谷が女将にそう聞いている。きっと芸妓の名だろう。 「すぐにお座敷に。あの子、なんか妙に張り切って。なんなんでしょうね」 そう言って女将はチラと俺を見た。なんで俺なんか見たのかわからないが、まあそれは気のせいだとも思った。それより艦の予算の交渉の場に、芸妓を呼ぶとはなんと非常識なことだ。これで大幅に予算が削られでもしたら、海軍省に抗議してやる。そう心に決め、俺は一層顔を引き締めた。 すぐに酒と肴が出てきた。どうやら交渉をする気ははじめからないらしい。最初に話し合い、そして酒食だろ。 「これは…」 「ああきみの言い分は想像できる。だがいまは予算の話は置いておきたい。話し合いはまた明日するってことで、今夜はきみの慰労を兼ねて席を設けさせてもらった」 それも意味がわからない。なんで海軍省の一官吏が俺を慰労する?艦長なら話はわかるが、ただの将校の俺がおかしいだろ。 「入ります!」 聞き覚えのある大きな声がした。縁側に立つ男のその姿を見て俺は驚いた。 「与一郎?」 「おお来ちょってくれたか、克彦が」 「なんでお前がここにいる?」 「おはんと飲みたくて粕谷さんに頼んだ。おはんとはいま戦ん最中だとか。ここは一時休戦がよか」 「安曇大尉の義父うえはわたしの友人でね。まあ彼は立派な艦長だが、わたしはしがない官吏さ」 いや官吏でも相当実力のある人間だと俺は思った。文官ながら軍務を一手に引き受ける英才だと主計局のやつらから聞き出してもいたし。 「そういうわけでおまえが軍務局を煩わせていると聞いたもんでな、そいの武勇を拝みに来たちゅうこつじゃ」 「べつに煩わせちゃいないぜ、俺は」 「まあまあ、安曇大尉も座り給え。とりあえず乾杯だ」 その声で仲居たちが俺たちに酌をはじめた。座に酒の香りが一気に漂っていった。そして料理が少しづつ運ばれはじめると、与一郎がつぶやくように言った。 「海軍じゃこげん贅沢も出来るとが、じゃっどん市中じゃ困窮するものが増えている。地方では娘の身売りも頻繁じゃそうじゃ。戦後不況がますます拡大して、貧困ば広がっていくだろう」 「しかし南洋や中国に進出しているわが帝国にはまだ余力があるだろう?」 「亜月くん、そいつはどうかな。満州じゃ先年、長春で起きた中国軍との軍事衝突でいまだ両軍は睨み合っている。独軍との戦いで勝ち取った膠州も、青島ごと中国に帰さなくちゃならないし、一体誰得と言ったところだ」 つまり先行き真っ暗ということか。 「まあそんなことはいい。女将、春子を」 そう粕谷が声をあげると、すぐにふすまが開き、綺麗な化粧と鮮やかな和服を着た芸妓が頭を下げていた。ふつう東京の芸妓は黒地の地味な和装なのだが、この芸妓は舞子のような派手な色の衣装を身にまとっていた。 「春子と言います。どうかよろしゅうに」 そう言ってまた頭を下げると、ツツと座敷に入り、上座の粕谷の横に座った。どこかで見たことがある、と俺が思ったと同時に、春子と名乗る芸妓は俺を見て、小さく首を傾げた独特のあいさつをしてきた。俺に芸妓や芸者の知り合いはいない。おやじに連れられて行く料亭で同席しても、俺はあまり口をきかず黙って酒を飲んでいるので、仲よくしてくれる芸妓もいなかった。 「お久しぶりですね、亜月さま」 俺は正直これほど驚いたことはなかった。艦の4.7サンチ砲が砲塔内で暴発したときだってこれほど驚きゃあしなかった。 「どこかでお会いしたかな?」 「先日、横須賀線の列車の中で」 ああそう言われればそうだ。あの日、俺に酒筒を渡してきたあの女だと、そう思ったときには彼女はもう俺に酌をしていた。 「お忘れになりましたか?」 「覚えています。たしかあのときは小春と名乗っていましたね」 「本名なんです」 そう言ってこんどは与一郎のそばに行き酌をした。あのときと同じ香りを残して。俺はそのときなんだか心がチクッとした。
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