一日目 私の条件

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一日目 私の条件

「どうして来たんです?」  長い長い婚儀を終えて、疲れ切った私の口から出たのは素直な感想だったと思う。  隣国から一人嫁いできた私は、今日、この国の王太子と正式に夫婦となった。  国交とか政治的思惑とか、まあ色々ある訳だけど、こっちも一国の王女をやって二十年。その辺の事情は分かっているし、今更文句を言うつもりはない。それがたとえ、今日まで一度も顔を合わせたことも話したことも手紙をやり取りしたこともない相手だろうと、文句を言うつもりはない。本当にない。  ――でも。 「……どうして、とは……」  ノックの音を聞いて、てっきり侍女かと気軽に答えた私が悪かった。でもまさか、なぜか湯浴みを終えたらしい王太子が、ゆったりとした寝衣姿で現れるとは思いもしなかったのだ。    私の言葉を聞いて困惑し、少しだけ動揺も混じった顔で王太子は扉の把手に手をかけたまま固まった。黙って見つめてくるだけで、それ以上何も答えない。  仕方ないので読んでいた本を閉じ、とりあえず室内に招き入れる。ため息が出たのは許してほしい。だってもう眠るつもりだったのだ。王女としての振舞いなんて引き出しにしまってしまった。   「こうして言葉を交わすのは初めてですね」  とりあえずソファに座らせ、侍女が置いていった茶器で紅茶を淹れテーブルに置くと、王太子は珍しそうな顔で私をしげしげと見た。 「なんです?」 「いや、まさか貴女自身が紅茶を入れてくれると思わなかった」 「自分の飲みたい時に自分で淹れているだけです。これはよく眠るためのお茶ですので、睡眠の妨げにはなりません」 「よく眠るため」 「ええ。お疲れでしょう?」 「ああ、まあ……」  相変わらず困惑した表情のまま、王太子は美しい所作でソーサーを持つと紅茶の香りを吸い込んだ。    正面からこの人を見るのは初めてだ。婚儀の時はずっと隣に立っていて、一度も顔を見上げていない。宣誓の時ですら、ベールを上げられた時も額に口付けを貰った時も、ずっと視線を伏せて顔を見ることはなかった。それは恐らく王太子も同じこと。  そう、私たちは今初めて、お互いの顔を認識したと思う。  目の前に座る私の夫となった王太子は、噂のとおり、それはもう素晴らしく美しい顔をしている。  婚礼の儀では後ろに流していた前髪も今はおろし、しっとりと濡れた銀色の髪が室内の最低限の灯りをキラキラと跳ね返している。婚礼の儀で身に纏っていたあの白い礼服もとても似合っていたけれど、こうして寛いでいる姿も非常に絵になる。美丈夫と言うのはどんな姿でも美しい。 「それで?」 「え?」 「ですから、どうしてここに来たのですか」  私は正面から、驚いた表情でカップから顔を上げた王太子を見つめた。  私たちは確かに夫婦になったけれど、だからと言って初夜を迎えるつもりがあるとは思っていなかった。この国に来てからずっとそういう扱いを受けていたし、この王太子妃宮の侍女長も侍女たちも皆、そう言っていた。  ――王太子殿下は伽はなさいません。この婚姻は形だけです。殿下は妃としてしっかりと公務を果たされれば良いのです。  だからこそ、何でもない木綿の質素な寝衣を纏い、なんなら冷え対策にと何枚もドロワーズを重ねて履いている。色気も何もない姿で、しっかり寝る支度をしていたのだ。そもそも色気のある寝衣など持っていないのだけれど。 「まさか、ちゃんと初夜を迎えるおつもりなのですか」 「……むしろどうして迎えるつもりがないと思っていたのか教えてくれないか」 「私たちにそんな事をする必要があると?」 「……我々は国家間の問題を解決するために婚姻を結んだと思ったのだが」 「そうですネ。ですから今日婚礼の儀を終わらせたのですよね」 「……子を成すことも大事な義務だ」 「それは今回の婚姻の条件に含まれてはおりません」 「は?」  王太子はさっきよりも益々眉間の皺を深く刻んだ。奇異なものを見るような顔で私を見つめている。これはもう、条件を再度確認する必要がありそうだ。  私は小さく、息を吐き出した。
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