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たまゆらの螢
むせかえるような草のにおいと蝉の声が、周囲に迫る深緑の山々から風に乗って全身をすり抜けていく。目の前を粛々と流れる川は、どこまでも蒼く透明だ。
少しよそ見をしただけで、あっという間に取り残されてしまう、そんな目まぐるしく変化する世の中にあって、ここだけが、いつまでも、いつまでも、変わらぬ風景で私を迎えてくれる。
「おぉいハナ、早うこっち来ぃや!」
弾むような若々しい声にはっとして顔を上げれば、沈下橋の中ほどに立つ二人の青年のうちのひとりが、私に向かって大きく手招きをしている。
「今日は行きたいとこがよぅけあるき、ぼーっとしちゅう暇なんかねえぞ!」
“ぼーっとしてる”だなんて、酷い言われようだ。更に激しく手招きする颯太に、思いきり舌を出してやろうと思ったが、颯太のとなりで可笑しそうに肩を揺らす咲哉と一瞬目が合ったので、慌てて口を噤み、二人のもとへと急いだ。
「げにハナはのんびり屋ちやなあ。こがなとこでグズグズしちょったら日ぃが暮れてしまうで」
ああもう颯太、憎たらしい。
「久しぶりにここに来たがやき、いろいろ思い出に浸りたいんやろ」
咲哉の優しい声音を、そっと風が運んでくる。
「そうは言うてもなあ……おばちゃんの店、閉まるの早いきなあ」
「まだ開いちゅうやろ」
「いつまでもここでぼーっとしよったら店が終わってしまうっちゅう話をしゆうがじゃ!」
言い終わらないうちから颯太は私たちに背を向けると、ぱっと駆けだした。
どんどん小さくなっていく、颯太の大きな背中。
「あいつ、おばちゃんの店に行くの、まっこと楽しみにしちょったきなあ」
となりに立つ咲哉へちらりと目を向けると、困ったような、それでいてどことなく楽しそうに微笑んでいた。
「早う!」
橋を渡りきったところで颯太がくるりと振り返り、半袖の開襟シャツから伸びる日焼けした筋肉質な腕を、真っ青な空へと振り上げた。
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