第9話 守れなかった約束

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第9話 守れなかった約束

 皐月のお兄さんという人は、細い目が似ていたが皐月より穏やかな顔をしたのんびりした人で、心に深い悲しみを湛えながら僕たちに皐月の話をしてくれた。  普段、口数の少ない皐月をお兄さんは心配していたけれど、数日前、唐突に長い話をし始めたという。  その話は皐月自身の話ではなかったけれど、皐月の思い入れの深さにお兄さんは苦笑したらしい。  その話というのは僕と明音さんのことで、いわゆる『両片想い』ってやつが見てて面白くもあるんだけど、歯痒いんだと長々と語ったという。  だから僕たちがそこを訪れた時、お兄さんは皐月の本当の友だちが来たことをうれしく思ったと告げた。 「皐月と仲良くしてくれて、本当にありがとう」とお兄さんは言った。皐月は友だちを作るのが下手な子だったんだ、と。  僕たちはお線香を一本ずつあげて、僕は赤いリングのついた単語帳を遺影のそばに置いた。  そう、赤いリングの単語帳は僕と明音さんを繋ぐ単語帳だ。明音さんがくれたくたびれた漢字の単語帳を、僕は一枚ずつ写した。それを会えなくなったあの日に渡すつもりだった。  リビングと呼ぶには狭い部屋には急ごしらえの仏壇と、壁際にはたくさんの参考書が積み上げられていた。そして僕はその中に『十五になった君へ』と背表紙に書かれた本を見つけた。これが話していた本だとピンと来た。  借りて帰ったその本には十七になった僕の心を揺るがすような何かは見つからなかった。でも十五の皐月はこの本のどこかに揺さぶられ、この著者である哲学者のところで学びたいと思ったんだろう。  その人のいる大学は、皐月の言っていた条件にピッタリだった。  皐月が僕たちにしてくれたことはすごく大きかった――。  ◇  やがて僕たちは嫌でも受験生になり、押し出されるように大学に追いやられた。  僕は望み通り、電車で一時間半、少し遠い国立大の宇宙物理学科に進学した。明音さんは地元のごく近い国立大の国文科に進んだ。  大学が違ったからじゃない、僕はそう思っている。いつだって僕らの間には皐月が欠けていた。皐月という名の穴がぽっかり開いていた。  残念ながらそれを埋める何かが僕らには見つからなかった。どこを探しても皐月はいなかったからだ。  季節が変わるように僕たちの関係も変化し、メッセージのやり取りさえしなくなった。  同じ街に住んでいて、すれ違うこともあった。彼女は背の高い男とスクランブル交差点を腕を組んで歩いていた。笑顔だった。  またある日は僕の方が違う女の子と歩いていた。黒髪が綺麗な眼鏡をかけた女の子だった。  七回忌、ずいぶん遠くまで来ちゃったな、と思う。  僕は今も『此方』でアイツはいつでも『彼岸』だ。何度もあの頃を夢見たけど、そろそろその回数も疎らになってきた。⋯⋯皐月、僕はいつまで君を君のまま、覚えていることができるだろうか? 或いはすべて忘れてしまうなんて、そんな日が来るんだろうか? あの日々を、無かったことにして。  誰かの足音がした。どこか他の墓地に誰かお参りに来たのかと、知らないふりをする。墓地で誰かに会うのは、何故か後ろめたい。 「――青葉くん」  それはいつ聞いたのが最後だったのか。あの、懐かしい日々の残り香のような、凛とした声だった。心の内にあの日々が、スライドをめくるようにフラッシュバックする。  僕が「やあ」と言うと、彼女は「久しぶり」と少し悲しげに微笑んだ。  僕のすきだった黒髪は今は肩くらいの長さに落ち着いて、大人になったことを意識させた。今は大学の研究室にまだ残ってるんだと言った。左手の薬指に光るものはなかった。それは僕も同じだった。  僕はJAXAにこそ入れなかったけれど、その関連会社に入ることができた。  二人とも安定した大人になった。  僕たちは皐月にお線香をあげると、それぞれ手を合わせて、皐月に思いを馳せる。  ⋯⋯空気を読んで、今、言うべき言葉を。  皐月、そこから見ていてくれ。一人でもきっとできるから。僕はもう、誰かの手助けを待っているだけの人間じゃないはずだ。 「明音さん」 「なに?」 「もし今、そういう人がいないなら······僕たち、やり直さない? 皐月はいないけどさ」  明音さんはとても驚いた顔をして、すぐに口を開かなかった。僕は間抜けなことを言ったのかもしれないと思った。  でもあの日、皐月が背を押してくれたように、今日もその同じ手に背を押された気がした。  相変わらずお節介なヤツだ。 「青葉くん、わたしたち、やり直せるかな? 皐月くんのいない世界で」 「皐月はいつでもここにいるし、ここにいない。でも僕たちが悲しい思いをすることを望んでないと思うんだ。あの頃はまだ僕は子供で、君とのことと皐月のことを上手く区別できなかったけど――今ならできると思う。生きている皐月とは上手にさよならをして、今、ここにいる明音さんだけを見られると、そう思うんだよ」  明音さんは両手で顔を覆って、下を向いて泣いた。 「わたしたち、七年かけて、生きてる皐月くんとようやく『さよなら』するんだね」 「そうだね、もう自由にしてあげようよ。きっと今も笑ってるよ、僕たちのこと。いまだに歯痒いヤツらだって」  線香の煙が目にしみる。高台にあるその墓からは斜面に並ぶ墓地と、その下の整然とした街並みが見えた。そこには人々の生活がある。  生者と死者の違いなんて、その程度のものなのかもしれない。  僕と、皐月と、明音。  連絡先をあの日交換して、多分、電車を降りてすぐだったんだと思う。最初で最後のメッセージがまだ機種変しても残ってる。 『俺の大事な明音を譲るんだ。大切にしろよ』  ごめん、ずっと守れなかった約束をようやく守れそうだ。でも皐月、今、彼女はもう『僕の大事な明音さん』なんだ。僕は皐月に彼女を譲る気はないよ。だけどその分、いつまでも大事にできると思う。  彼女は泣き顔で笑った。まるであの頃の、三人でラーメンを食べに行った時のような、満足した顔で。  ここには、誰の寂しさも、もうない。 (了)
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