第1話 白い単語帳

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第1話 白い単語帳

 今日も予備校帰り、吊革にぶら下がってひとり、単語帳をめくる。  四角い白い紙に穴が空いていて、リングが通されている。リングの色はプラスチックだと赤や青、黄色などカラフルで、シルバーの金属のものもある。付け外し可能だ。  その小さな紙片に、僕はいろいろな知識を書き込んでいく。例えば英単語。裏返せば意味や使い方が書かれている。  机の上で白い紙、一枚一枚に、色ペンや蛍光ペンを使って作り上げた単語帳は、まるで自分用の一冊の参考書だ。  今どきは入学時に買わされる電子辞書に市販の単語暗記アプリや、山川の歴史問題集などがプリインストールされているので、僕みたいに単語帳を使うヤツは珍しい。    それでも僕は単語帳が好きだ。だから今日も単語帳をめくる。  今日は来週頭に学年でやる漢字テストの問題。このご時世に、わざわざ大きく貼り出される。一度も二十位までの順位表に載ったことがない。  今回は『憂鬱』という字が覚えられない。『ユウウツ』だ。ごく一般的に使われるその文字がなぜか覚えられない。何回書いても。  もちろん『憂鬱』が書けなくても死ぬわけじゃないし、大学に落ちるわけでもない。ただいつも一位を取る『大西明音(おおにしあかね)』に一度くらい勝ってみたいと思っていた。  大西明音は同じクラスになったことがない、まったく知らない子だ。名前しか知らない。  どんな子なんだろう? きっと眼鏡をかけて背の低い、暗い⋯⋯もとい、髪はきつく結んで大人しい子だ。多分、だけど。  僕が勝手に闘志を燃やしていることを、大西明音は知らないだろうと思っていると、いつものように走り出したはずの電車がその大きな車体を歪ませるような金属音を立てて、急停止した。  慣性の法則に従って、身体が大きく引き摺られる。 『この電車は緊急信号を受け、急停止しました。お客様には迷惑をおかけしますが只今⋯⋯』  たまにあるヤツだ。毎日、通学に電車を使っているとこうして電車は急停止する。  すぐに復旧すればいいけれど、時間が長引く度、電車の遅延は酷くなる。この電車が止まる。後ろの電車も動けない。その後ろも⋯⋯と遅延は広がる。  僕の駅は幸い、今の電車の路線沿いなので、他の遅延に困らされることはないけど、上り方面から下るのはきっと大変になるだろう。  と、足元に白いものを見つける。  単語帳だ。黄色いリングの単語帳。  すっかり絶滅危惧種だと思っていたのに、僕の他にもまだ使ってる人が⋯⋯。  不意に隣の子が、立っていられないという感じでしゃがみ込んだ。隣で誰かが貧血を起こした経験のない僕は酷く焦った。とりあえず自分も姿勢を低くして、「大丈夫?」と訊いた。  顔を上げて僕を見た彼女の顔を見て、僕は驚いた。  ――真っ青だった。  血の気は引いていて、苦しそうに見える。唇まで血の気が引いている。 「⋯⋯大丈夫です。ちょっと、びっくりしただけで」 「そうだよね、僕もびっくりしたよ」  立ち上がろうとする彼女に。つまり、彼女の手を引いた。  青白いと思ったその白い肌は元々のものだったらしく、手首は綺麗な色白だ。  黒髪が肩を超えるほど長く、少し背の高いスラッとした女の子だった。背の高い僕の肩を越す。  綺麗な人だ。しかも同じ学校の制服だ。黒を基調に、青いネクタイ。  立ち上がるとすぐに僕は単語帳を彼女に返した。彼女の顔が一瞬赤くなる。真っ白な頬に朱を帯びる。  恥ずかしそうな顔をして彼女は「ありがとうございます」と消え入りそうな声で言った。まるで彼女自身が消えてしまいそうに、小さい声だった。  その時、彼女の前に座っていたイヤフォンをつけた男が突然立ち上がり、「どうぞ」と言った。 「もう大丈夫です」 「ほらここ、優先席だから。混んでないから座ってたけど、そもそもはこういう時に座る席でしょう?」  ますます彼女は赤くなって俯いた。そして席を替わると「ありがとうございました」と今度はハッキリした声で言った。少し安心して、同時に何故か、少し自分に落胆した。  電車は待っていると信号の点検作業を終えて、再び走り出した。  彼女は平静を取り戻したのか、再び単語帳をめくりはじめる。 『appear』-『現れる』。『appearlantly』-『一見して』。  英単語だ。きちんと系統的に単語が並べられている。僕の好きなやり方。  几帳面な人なんだな、と思う。 『appear - appearlantly』、覚えにくい活用だ。だからこそ、単語帳に入ってるんだろうけど。  彼女の姿を見ていたら、自分ももう少し熱心に勉強した方がいいと思った。『憂鬱』。今の僕の心にはない感情だ。 ◇  翌日、朝の電車でそれとなく彼女の姿を探す。でも彼女はいない。  昨日、僕の方が先に降りたから、先に乗っているはずだ。昨日と同じ車両に乗ったのに、彼女が乗った車両が違うんだろう。少し、ガッカリする。  あれから無事に帰れたんだろうか――。 「青葉」 「なんだよ、森崎。突然後ろから押すなよ」 「押してないよ、挨拶、挨拶。そう言えば昨日の遅延、巻き込まれた? SNSで話題になってたよ」 「ああ、丁度、予備校帰りで急停止してさ」 「お気の毒」  森崎は悪いヤツではない。寧ろ僕は好ましく思っている。男のくせにクルッとした大きな目をしていて、その上天パ。性格は明るくて、人懐こい。僕より小さいけど女子にはモテる。  中学から腐れ縁のこの男といるのは不快ではなかった。 「なんだよ、また単語帳? マメなヤツ。『憂鬱』? こんな漢字のことは忘れちゃえよ。無くても死なない」  思わず笑いがこぼれる。僕も昨日、同じことを思ったからだ。  そう、だけど昨日、帰ってから練習した。『鬱』。要するに部分、部分を分解してやればいい。シャープペンシルで間違えないように、一画一画、確かめるように書く。  ふぅ、なんとか形になった。その後、繰り返し練習する。面倒だけどそれしかない。 「確かに無くなっても死なない」  僕は『憂鬱』を引っ張ってリングから無理やり外すと、ぐちゃぐちゃに丸めてポケットに入れた。 「青葉、お前どうした? お前が単語帳破るところ初めて見たんだけど!」  だろうな。自分で作った愛着あるカードを破ったりしない。覚えたカードは外して別のリングに通してある。 「大西明音、今度は超えたいんだ」  すると森崎は吹き出して笑った。いわゆるお腹を抱えてってやつだ。失礼なヤツだなと思って、軽く肘鉄を入れる。 「だってお前、そんな野望持ってたの? 二十位にも入らないのに? 文系には勝てないよ」 「野望っていうか、卒業するまでに一度くらいはさ······」 「確かに大西さんは『漢字のプリンセス』だけどね」 「プリンセス?」 「今度見つけたら教えてやるよ」  それにしても面白い、と森崎はいつまでも笑ってた。お陰でこっちまでキョロキョロ見られて本当に恥ずかしい。  大西明音のことなんて言わなければよかった。  と、顔を上げたその先に昨日の彼女が見えた。黒くて長い髪、結んでない。白い肌が制服の黒に映える。今日は顔色が戻ったんだろうか――? 「なんだ、本当は知ってるんじゃん。プリンセスちゃん」 「え?」 「あれ、隣の車両。あの子のこと見てたんだろう? 彼女が毎回、漢字テストで一位を取ってる大西さんだよ」 「え?」  僕は知らずに、昨日知り合ったばかりの彼女をライバルだと思ってたらしい。想像上の大西さんを思い出す。  馬鹿げてる。向上心、とか思ってた僕の負けだ。  大西さんの名前がまた、僕より上に貼り出される、そんな白昼夢を見た。
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