序章

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序章

世界は精霊が創造した。 精霊の名はハク。 先見の瞳で人々を導いた。 精霊の名はリョク。 その強さで人々に力を与えた。 精霊の名はコク。 人々に寄り添い心までも護った。 精霊の名はカク。 煌めき輝き降り注ぎ、その赫き光で人々に希望を与えた。 人々が命を繋ぎ、大地に増えて満ちたころ、精霊たちはそれぞれの地でその営みを見守ることにした。 ハクは東へ。 リョクは北へ。 コクは西へ。 カクは南へ。 精霊が創造したこの世界は、今日も人々が生き、その命を輝かせている。 *** 北の大陸の大半を治める大国、シースナーの王宮の一室でフェン・ツァンルーは身支度を整えていた。 翡翠色の髪に琥珀色の瞳を持つ男は、自らが所属する隊服に袖を通す。 鏡の前で何度も角度を変え、主君である皇女の御前にふさわしいかを確認する。 ツァンルーは第二皇女の親衛隊員であり、その長でもある。 隊を設立してから、もう八年になる。 八年前に故郷を出て、成人の儀の一環として三年程度の奉公に勤めるつもりが、初日に謁見した皇女の姿を見て—―――― 気付けば八年である。 今では隊員も増え、故郷の者たちも黙って認めるほどの組織となり、帰郷は無期限延長となっている。 (今日もいい天気だな。城下も平和だ) 窓から城下町を見下ろし、朝から仕事や買い物などで行きかう国民の姿に目を細める。 朝一番の仕事は、皇女の部屋へ挨拶に行くこと。 誰にも譲れない、ツァンルーの特権である。 自室を出ると、廊下ですぐに同僚と会った。 「お早う」 声を掛けられた人物は蜜柑色の髪を優雅に広げて振り返った。 「あら、お早うツァンルー」 隊服に華美な装飾を施し、化粧で煌めく唇で挨拶を返す。 「ルピナスにしては早いな」 「私はいつも早起きよ。身支度に時間がかかっているだけ。朝礼に遅刻したことはないでしょ。早寝早起きは美容に大切なの」 「確かにそうだな」 ルピナスと呼ばれた男は――口調こそ女性っぽいが、れっきとした男性である――片目をつぶってにっこり笑う。 ツァンルーと対等に雑談が出来る人物はあまり多くなく、ルピナスが軽口をきくのは彼がツァンルーの右腕である副隊長という立場であることと、私生活においても良い友人となれたからに他ならない。 「いい天気ねえ」 ぽつぽつと会話しながら、長い廊下を並んで歩く。 途中何人かの隊員や兵士、使用人とすれ違ったが、皆恐縮して道を空ける。 ルピナスは手を振って「おはよ~」と声を掛け、ツァンルーはその鋭い視線で返す。 王族の生活する棟まで来ると、ツァンルーはいつも通り右へ曲がった。 ルピナスは、食堂のある左へ曲がる。 …はずが、何故か今日はルピナスも右へ曲がってついてくる。 「ルピナス」 「なに?」 「ここからは、王族の方々以外の男は特別なお召しがなければ踏み入れないぞ」 「そうね」 ツァンルーはいつだって大真面目であることは、ルピナスが知らないはずはない。 「…もう一度言うか?」 「そんな顔しないでよ。大丈夫よ」 「何が大丈夫なんだ」 眉間の皺がひとつ増えた。 「“特別なお召し”だからよ」 「っ…」 思わず絶句するツァンルーに微笑み、ルピナスは続けた。 「貴方の特権を奪うつもりはないわよ。でも、今日は私も来るように言われてるの」 「何故だ?」 「さあね。それも含めてお伺いしましょ」 階層をふたつほど上がり、金の花が飾られた扉の前に立つ。 「ふふ、姫様のお部屋らしくて可愛いわね」 その扉を初めて見るルピナスは、ツァンルーの眉間の皺を見ない振りを続けている。 私はお作法が判らないから、と先に入るように目で促した。 ツァンルーは八年間欠かさず続けているリズムで扉を叩く。 中からは、皇女ではなく使用人の女性の声で返事が聞こえた。 「お早う。フェン・ツァンルーだ。姫様はお目覚めか」 「お早う~。ハニー・ルピナスよ。私も来たわ」 当然、皇女は目覚めているし、朝食も済ませているのは承知の上であったが、いつもと変わらず元気な姿で待っていると確信してのやりとり。 どうぞ、と中へ通された。 ふわり、と花の香りが鼻孔を擽る。 あちこちに生けられた色とりどりの花が、朝陽に照らされて目にも鮮やかだった。 「お早うございます、姫様」 少しだけ焦ったように声を掛ける。 ツァンルーに自覚は無かったが、ルピナスに先取られまいという心の現れで、実はしっかりルピナスには気付かれていた。 (だから、貴方の特権は奪わないってば。面白い男ねえ) 少し笑ってしまってから、ルピナスも声を発した。 「お早うございます姫様。今朝は私にも御用とかで」 大きな椅子に座る小さな少女は、ふたりの姿を見てにっこりと微笑んだ。 「お早う、ふたりとも。ルピナスには急に来てもらってごめんね」 「いいえ、とんでもないことですわ、姫様。光栄です」 「…、今朝は何故ルピナスもお召しなのかは後ほど伺うとして…、まずは本日のご予定をお伝えしてもよろしいですか」 「うん、お願~い」 「畏まりました」 淡々と予定を伝えるツァンルーと、うんうん、と頷く皇女を、ルピナスは (なるほどね、これがツァンルーの至福の時間なのねえ。不愛想だけど、幸せが滲み出てるのが私には判っちゃうというか…それにしても、この時間は他人が邪魔しちゃ悪いわね) とぼんやりと眺めながら思った。 「…以上です」 「了解~!じゃあ、その感じだとツァンルーとルピナスは、今日の夕方は揃って時間が空いてるってことでいい?」 「空いている…と申しますか…」 「ウルのお夕食と湯浴みの間は暇じゃない」 「姫様。ご自分のことは“私”と…それに、お部屋の前での警護は」 皇女――ウルは毎度の小言に少しだけ唇を尖らせた。 「とにかく、夕方は時間あるでしょう?ウル、ふたりに頼みたいことがあるのよ」 「頼み…ですか」 「私とツァンルーで、ですの?それがお召しの理由ですか」 「そうなのよ!ちょっとね、リストを作って欲しくって」 「「リスト?」」 ツァンルーとルピナスは声と、顔を合わせた。 *** 「では…失礼いたします」 「ごきげんよう、姫様」 ウルの部屋を出た後、ルピナスは額に手を当てて大きな溜息を洩らし、ツァンルーはその場で膝から崩れ落ちた。 「ちょっと…大丈夫?」 「…ああ…。姫様の前でこうならなかった自分を誉めたい」 ツァンルーの顔からは血の気が感じられず、冗談ではなく立つのがやっとの状態だった。 「とにかく、この棟から移動しましょ。メイド達に見られたくないでしょう?」 「…ああ」 ツァンルーの腰を支えながらなんとか移動し、万一の時に休めるようにとルピナスは自室へ招き入れた。 「…まさか姫様が…」 羽虫の鳴くような声でツァンルーが零す言葉は、ほんの数十分前に放っていた幸せなオーラとは真逆だ。 ソファに座り、両足を投げ出して天井を仰ぐツァンルーの姿は、とても他の隊員たちには見せられない。 今朝同行したのはやはり正しかったのだとルピナスは確信した。 当然親衛隊を設立した張本人であり、その責務を全うしているツァンルーの忠誠心は誰もが認めるところであり、同時にその先の感情を抱いているのは誰の目からも明らかで、それでいて誰からも茶化されたりできないほどツァンルーには威厳がある。 その彼をこんな姿にさせている姫君はなんと罪深い少女か…。 右腕として、友としてルピナスは我が事のように眉を寄せた。 『ウルのお婿さん候補を、ざっくりでいいから一万人くらいリストアップしてほしいのよ』 386f9b2d-832f-4d2b-ad2f-3d0fed423c7d 花のような笑顔で、言い放たれてしまったのだ。 言葉の意味を理解しようとしているふたりに、さらにウルは続けた。 『ウルももう十三だし、そろそろ結婚を視野に入れたいの』 『容姿端麗で、頭脳明晰で、魔力が強い殿方を探して、ウルの前に連れてきて』 『今のうちにこの人!っていう方を決めて、愛を育んで、大恋愛で結ばれたいの!』 ウルの言葉を一語一句記憶しているツァンルーのことだ。 今も恐らく。 「…朝礼、出来そう?」 定刻が迫っている。 「私、今日は代わ―――」 「行くぞ」 まだ顔は青白いが、はっきりとした声でツァンルーは応えた。 「姫様の、ご命令だ。隊員たちに伝えなくては」 「ツァンルー」 「親衛隊を挙げての重大な任務だ」 ルピナスは部屋を出ていくツァンルーの背中を追い、また大きな溜息を洩らした。
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