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「すごい」  部屋に入るなり、陽春(きよはる)は嬉しげな声を上げた。そんな彼を見ると、椋介(りょうすけ)は自分まで嬉しくなる。  陽春と暮らし始めて、約3ヶ月が経つ。お互い社畜なので、これが一緒にゆっくり過ごす初めての遠出である。温泉に浸かって、美味しいものを飲み食いするだけのために、ちょっと奮発していい宿を予約した。 「おおっ……」  寝室の奥の扉を開けた陽春に手招きされて、椋介もその扉の中を覗いた。温かい空気がこちらに押し寄せ、独特の匂いが鼻孔をくすぐる。露天風呂つきの客室なんて、椋介も生まれて初めてだ。 「今から入ろうよ、食事の前に」  陽春は瞳をきらきらさせながら、言った。普段どちらかというとクールな恋人のはしゃぐ姿を見るのは楽しい。  和室の乱れ箱に置かれた浴衣とタオルを手に取り、2人して浴室に飛び込む。木の浴槽から溢れている湯は少し熱い目で、かけ湯をしてから足を入れると、椋介の二の腕に薄く鳥肌が立った。 「ああ、気持ちいい」  天井を仰いで呟く陽春の横にかがみ、肩まで湯に入った椋介は、軽く鼻から息を抜いて、身体が解れていく感覚を味わった。 「あとで大浴場で背中流すよ」  そう言う8歳年下の恋人の白い頬が、湯のせいでたちまち桃色に染まる。  2人はデザイナーとメーカーの広報担当として出会った。椋介は自分の性的指向を徹底的に隠して生きてきたが、新作の家具のデザイナーと打ち合わせをするうちに、彼にそれを見抜かれた。陽春が何故自分なんかに熱心に交際を迫ってくるのか、椋介はよくわからず困惑した。しかし明るく魅力的な陽春に、椋介もこれまでになく惹かれたのだった。  こうして一緒に小さな場所に収まっていると、若くて才能豊かな陽春に自分は相応しくないという椋介の小さな引け目が、湯に溶けていく。 「椋さんと温泉とか嬉しい」  陽春と同じ気持ちだけれど、仕事の時と違い、気の利いた言葉がひとつも出ない。椋介は彼に笑いかけた。
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