《消えない残響》2023年6月1日

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 綿矢蓮司が検事になってからもう9年の月日が過ぎたがこれほど特別な想いで臨む法廷は初めてだった。 「では、出廷確認を行います」 裁判長が事務的な口調で証言台の前に立つ漆原に訊ねる。 「名前はなんといいますか」  蓮司は改めて証言台の前に立つ漆原の姿を見た。蓮司と初めて会った時と同じ白いジャージの上下を着けている。身長186センチ。体重91キロ。選手名鑑に載っていたデータを頭に思い浮かべた。やや細くなったが、漆原の肩回りにはまだしっかりとした筋肉がついている。蓮司の心がざわついた。天高くバットを突き上げ、左打席に立つ漆原の姿が脳裏に甦ってくる。 「漆原克明です」 その名を漆原本人の口から聞いた時、蓮司は思わず唇を強く噛み、俯いた。否が応にも現実を思い切らされる。俺の唯一無二のヒーローだった男は……。 「生年月日は」 裁判長が続けて問う。 「昭和58年8月2日」 応える漆原の表情からは何の感情も読み取る事ができない。3人の裁判官の後ろに並ぶ8人の一般裁判員はどの顔も高揚していた。開廷直前、満席の傍聴席でざわめきが治まらず、裁判長から再三の注意が入っている。開廷した今も、小さな囁き声は止んでいない。無理もない。打点王を取ったことのあるプロ野球のスーパースターが被告人として証言台の前に立たされているのだから。 「それでは、あなたの起こした事件の公訴事実を検察官が読み上げてくれます。そのまま聞いていてください」  これは夢ではないのか。その思いがまだ拭えない。あの漆原克明が犯罪など。しかも、人を殺すなどと。 「検察官」 裁判長の尖った声。弾かれたように蓮司は立ち上がった。 「公訴事実」 どこかふわふわとした気分で蓮司は手元の資料を読み始めた。
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