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雨ときどき悪魔、のちやっぱり雨
(雨が降れば、きっと悠真を助けられるよね)
恩田白百合は、左隣を歩く幼馴染、三沢悠真の横顔を見つめながら思った。
保育園のころから、高校二年生のいまに至るまでずっと一緒にいる悠真。
白百合は悠真が好きだった。背が高いとか、まつ毛が長くて目が綺麗とか、性格が優しいとか、理由はいろいろあるけれど、とにかく、なにがあっても、この先ずっと共にありたいと思える存在だった。
だから思うのだ。
なにがあっても悠真のことを守ってあげたい。
彼に待ち受けているのが、死の運命だったとしても。
ふと、白百合は右手に目をやった。
真っ赤な身体。ツノを生やし、尻尾まで伸ばしている、奇妙な生き物がそこにいる。
悪魔だ。背丈は一メートルにも満たない、子供のようだが、悪魔はニタニタと笑いながら、
『聞こえているか? お前の相方は三日後に死ぬぞ』
(聞こえてるよ。……それくらい分かってる)
『そうか。覚悟はできているんだな。いいか、三日後だ。三日後の正午に、お前の相方は炎の運命によって人体発火して焼け死ぬのだ。は、は、は……』
(そんなこと、わたしが絶対にさせないから!)
「どうしたんだよ、白百合。怖い顔をして」
悠真が不思議そうに覗き込んでくる。
彼には悪魔の姿が見えない。声も聞こえないのだ。
「ううん、なんでもない。それより、三日後のスケジュールは本当に大丈夫なんだよね?」
「大丈夫だよ。それよりも、三日後は天気予報だと雨が降るって言っていたけれど」
「遊びに行くのは室内だから大丈夫だよ。それより絶対に忘れないでね。雨だからってキャンセルしないでね」
「わかったよ。僕も、雨を眺めるのは好きだから大丈夫。むしろ白百合こそドタキャンするなよ」
「もちろん」
白百合はうなずいた。
三日後、悠真が焼け死ぬ運命のその日。
白百合と悠真は、ふたりで隣町のファミレスに行こうと計画を立てていた。
表向きは、期間限定でフルーツパフェのフェアをやっているので、それを食べにいこうというプランだったが、もちろん白百合はパフェなど、どうでもよかった。
白百合の作戦だった。
三日後の隣町は、悠真が言った通り、天気予報だと雨になっている。
それも土砂降りになるらしい。好都合だ。白百合はその日、力ずくでも悠真を外に連れ出して、全身に雨を浴びせるつもりだった。いくら炎の運命で焼け死ぬとしても、大雨を浴びている状態で焼死するはずがない。
(とにかく雨だよ。雨さえ降れば、きっとなんとかなる)
『は、は、は……』
視界の隅で、赤い悪魔が憎たらしく笑っていた。
なぜ、このような事態になったのか。
それはいまから五年前。恩田家と三沢家が家族ぐるみで、山へキャンプに出かけたときのことだ。
キャンプ場の近くに、古びた教会が建っていた。
もう誰も使っていない、廃墟のような教会に、ふたりは冒険気分で突入してしまった。
教会の中は、ゴミも落ちておらず整然としていて、光を浴びたステンドグラスが息をのむほど美しかった。
そんな教会の奥で悠真がうっかり、丸いガラス球を踏んづけてしまったのだ。
「しまった! ……ヤバいぜ、ガラスが割れちゃった」
「悠真、足の裏は大丈夫? ケガしてない?」
「してないけれど。あーあ、木っ端微塵だ」
ビー玉くらいの大きさだったガラス球は見るも無惨な姿となったが、そのときだった。
赤い悪魔が、ふっと白百合の目の前に現れて、
『ようやく外に出られたぞ。……しかし、よくも俺を踏んづけてくれたな。許せん。お前の相方に炎の運命をくれてやる。いまからちょうど五年後に、炎に包まれて死ぬ未来を与えてやろう。五年間、せいぜい苦しめ。は、は、は……』
悪魔の宣言を、最初は白百合も本気にしていなかった。
というより、夢を見たと思ったのだ。
それから五年が経った。
すっかり悪魔のことを忘れていた白百合だったが、しかしいまから十日前、悠真と白百合が歩いていると、突然、悪魔が現れて、
『五年前のことを覚えているか? 炎の運命まであと十日だ。相方は炎に包まれて、確実に死ぬぞ。は、は、は……』
(あのときのことは、夢じゃなかったんだ)
白百合は愕然とした。
悠真に事情を話そうかと思った。
しかし、五年も前のキャンプにおける冒険譚なんて、忘れているに違いない。
それに悪魔の話なんて、相談しても信じてもらえないだろう。
こうなったら、自分の力で炎の運命を変えてやろうと思った。
そこで思いついたのが、土砂降りの雨を浴びせる作戦だったのだ。
シャワーも考えたが、悪魔に勝つには水の量と威力が弱すぎる気がした。それに、『わけは聞かないで。お願いだから、いまからシャワーを浴びて!』なんて、いくら幼馴染でもそうそう言えるセリフじゃない。――いちおう、まだ、付き合ってはいないのだから。
プールや海では、息継ぎをするときに顔が水の外に出る。そもそも白百合と悠真の住む田舎町には、プールも海もない。
けっきょく、全身にくまなく水をかけるには、強い雨が一番だと思った。
(雨よ、降れ。雨よ、ぜったいに降れ)
白百合は作戦の前日、てるてる坊主を作って逆さに吊した。
子供っぽい神頼みだが、それだけ必死だったのだ。
そして、その日がやってきた。
当日、午前十一時に隣町のファミレスにやってきた悠真と白百合は、パフェをふたりで仲良く食べたが、白百合の内心は気が気ではなかった。正午になったその瞬間には、絶対に雨の世界に悠真を連れていかねばならない。
(最悪、ファミレスの裏手に池があるんだけど……)
悠真は泳げない。
池の中に沈めたら、炎の運命は逃れられても溺れてしまうかもしれない。
できれば雨でなんとかしたかった。
外を見ると、雨が降っているが、小雨だ。
天気予報だと豪雨になっていたのに。
(お願い、降って。お願い!)
『あと十分だぜ』
悪魔が出てきた。
外はまだ、土砂降りではない。
けれども、もう待てなかった。
「悠真、いまから外で遊ばない?」
「こんな雨の中で?」
「大したことないよ、こんな雨。昔みたいに、雨の中ではしゃぎたくなったの、わたし」
変な子だと思われたかもしれない。
だが、白百合は必死だった。変人扱いされてもいい。悠真を守ることができるなら。
「……そうだな。よし、外で遊ぼうぜ」
(やった!)
思っていたよりもすんなりと、悠真は雨遊びの誘いにのってくれた。白百合も驚いたが、とにかくいまがチャンスだ。
白百合は急いで会計を済ませると、悠真と共にファミレスを飛び出した。
シトシトと雨が降り注ぐ。足りない。炎で焼け死ぬ運命を消し飛ばすには、もっと、もっと雨が降らないと――
「雨だ、雨だ、ひゃっほー!」
ファミレスの駐車場ではしゃぐ悠真の声が、少し腹立たしくもあった。呑気だなあ。
白百合は、空を睨んだ。
(お願い。もっと、雨。とにかく雨。……雨! 降って! お願い!!)
白百合は必死だった。
その願いが通じたのか。
ざあぁ、と、雨足が強まった。
すごい。
ゲリラ豪雨だろうか。
一気に雨が降り始めた。
「おいおい、とんでもないな!」
遊んでいた悠真も、雨がすごすぎて、さすがに困り顔になったが、やがてその表情も見えなくなるほど、雨がふたりを包んだ。
白百合はスマホを取り出した。
防水スマホだが、これほどの水を浴びて大丈夫だろうか。
時刻は正午一分前。いよいよだ。炎の運命がやってくる。
(悠真、死なないで。お願い!)
「白百合、どこだ。白百合!」
「ここだよ、悠真」
お互いの声は聞こえるが、姿はうっすらとしか見えない。
それほどの大雨の中、やがて時刻は正午になり――
「お」
「えっ!?」
「……見えた。白百合、そこにいるんだな。よかった、よかった。……にしても、すごい雨だな、はは」
「悠真。……大丈夫?」
「なにが」
「身体、熱くない?」
「え」
悠真は、一瞬、言葉を切ってから、
「……ああ、大丈夫だ。なんともないよ。僕のことよりも、白百合こそ――」
白百合は慌ててスマホを見た。
十二時一分。さらに時は流れる。二分。三分。四分!
(や、やった)
死ななかった。
悠真は焼け死ななかった。
大雨のおかげだろうか。炎の運命を、きっと脱出できたのだ。
「やった。やった、やった、やった! 悠真!」
「さ、白百合……」
白百合のはしゃぎぶりに、悠真は目を丸くする。
だが、それはどうでもよかった。白百合は悠真を助けることができた。ただ、それだけで充分、幸せだった。
「悠真、よかった。悠真が無事で」
白百合はほっとして、悠真に近付き、それから、とにかく雨がひどいので、スカートのポケットからミニタオルを取り出した。もちろんタオルもずぶ濡れだが、前髪だけでも一度ぬぐわないと、気持ちが悪くて仕方が無い――
そのときだった。
ぼっ、と、聞き慣れない、いやな音が耳に届いて、
「え?」
ぼおお――
白百合の、ミニタオルで拭いた前髪。
すなわち、一瞬だがタオルで雨をしのいだ毛先から、勢いよく炎が噴き出し始めたのだ。
「な、なにこれ、熱い、……熱い!!」
「白百合! くそっ、うまくいったと思ったのに……雨を浴びろ、白百合。タオルを捨てろ!」
悠真が叫ぶ。
白百合は慌ててタオルを捨てたが、火の勢いは止まらない。
どういうこと。なんでわたしの髪の毛から火が――と思っていると、赤い悪魔が現れて、
『は、は、は。ずっと雨の下にいればよかったのに、髪をちょっとでも拭いたばかりにこれだ。惜しかったな、相方の女はこれでおしまいだ』
(なにを言ってるの? おしまい? 相方の女って、どういうこと)
「ちくしょう、悪魔め。五年も前のことで呪って。やるなら僕をやれ。白百合は関係ないだろう!」
『俺を踏んづけた罰だ。一番大切な存在が目の前で焼け死ぬ苦しみ、味わうがいい』
そのやり取りを聞いて、白百合は愕然とした。
(悠真じゃなかったんだ!)
悪魔が燃やそうとしていたのは、自分だったのだ!
炎の運命は白百合にかかっていたのだ!
悪魔は最初から、悠真に話しかけていたのだ。
白百合はただ、悪魔の姿が見えたり、声が聞こえたりしていただけだったのだ。それなのに、自分に話しかけているとばかり思い込んでいた!
悪魔と話していたのは悠真だったのだ!
道理で、悠真があっさりと雨遊びにのってきたわけだ。
雨が土砂降りになっても、ファミレスに逃げ込もうとしなかったわけだ。
悠真もまた、相方を助けようとしていたのだ。白百合を雨の世界に連れ出そうとしていたのだ。
「悠真。わたし、全部知っていたよ。わたしが悠真を助けたかったのに」
「しゃべるな。くそっ、雨がもっと降れば、もっと降れば――」
白百合の毛先がどんどん燃えていく。
熱い。このまま死んでしまう。悪魔がゲラゲラ笑っている。悠真は必死になって、雨を白百合にかけているが、炎は消えない。
悔しかった。悪魔のせいで死ぬなんて。そんなこと、そんなこと。
そのときだった。
白百合は気が付いた。
(わたしには最後の作戦がある)
悠真なら使いにくい作戦。
けれども、自分ならば。
「悪魔、見ていてよ。わたし、悠真と違って水泳は得意なんだから」
『なに?』
「えいっ!」
そう言って白百合は、ファミレスの裏手にあった池の中に飛び込んだ。
雨で増水していた、灰色の水の中。水泳が得意な白百合でも、普段だったら絶対に飛び込まない。
けれども、このまま炎に包まれて死ぬくらいなら――
『なんだと、なんだと、なんだと』
(消えて! 消えて、消えて、消えて、炎……)
毛先で燃えていた炎が消えた。
白百合は水の中で必死にこらえた。
何秒か、何十秒か。おそらく一分ほど経って、息が続かなくなって、――そのとき声が響いた。
『くそう。くそう、くそう。こんなやつらに、炎の運命が。俺の炎が……!』
勝利の実感があった。
炎の運命に、白百合は打ち勝つことができたのだ。
「ぷはっ」
池から顔を出した。
まだ、雨が降り続いている地上。
白百合の髪の毛は、もう燃えない。悪魔の姿も見えない。声も聞こえない。
「勝った。勝った、勝った――あれ」
白百合は安心したせいか、身体の力が抜けていくのを感じた。
ああ、だめだ。あともう一踏ん張りなのに。頑張って、地面の上に行かないといけないのに。もう陸に上がることもできない。
(でも、悠真が無事でよかった。死ぬのがわたしじゃなくて、本当に……)
そう思ったとき、白百合の身体をぐっと支える腕があった。
悠真だ。
悠真が池の中に入ってきて、自分を抱えてくれている。
「悠真。泳げないくせに、来てくれたの」
「白百合を助けたかったからね。それに」
そう言いながら、悠真は白百合を担いで、池から出してくれた。
そして悠真自身も、ゆっくりと池から上がってくる。
「僕は背が高いから。足が着く池じゃ、さすがに溺れないよ」
(そうだった)
身長百五十センチの白百合より、悠真は三十センチも身長が高い。
その三十センチの分、悠真は池の底に足を着けることができたのだ。
これなら溺れるはずがない。
小雨になってきた。
白百合と悠真は、ファミレスの駐車場まで戻って、お互いに笑みを浮かべた。自分たちは運命に勝った。白百合も、燃えたのは髪の毛の先だけだった。髪が少し燃えたのはショックだが、それでも死ぬよりは、もちろん、ずっといい!
「あは、悠真」
「白百合、良かった」
ふたり揃って、赤い悪魔に、炎の運命に翻弄されていたのだ。こんなことならもっと早く、悪魔が見えていることを打ち明ければよかったね――幼馴染のふたりは、視線だけでお互いの気持ちを伝え合った。
「だけど、もう少し、雨が降ってほしいな」
「どうしてだよ。もう悪魔はいないんだぜ」
「だって」
白百合は、自分と悠真を交互に指さして言った。
「服も身体も、池の泥だらけなんだもん。雨で洗い流さないと」
その言葉を聞いて、悠真は声をあげて笑った。
ふたりは、今度は笑顔で天に祈った。
雨よ降れ。……雨よ降れ!
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