ヒーローに恋した脇役

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 音楽室へ戻ると、何故か鍵が開いていて北野くんの姿があった。夕方でも、クーラーのついていない真夏の音楽室は暑い。だから彼の頬と鼻が少し赤いのは、そのせいなんだと思うことにした。 「どうしたの、こんな時間に」  自分だって「こんな時間」にここに居るのに、北野くんはそう言って笑った。 「忘れ物」 「奇遇だね、俺も」  北野くんの笑顔は痛々しいほど爽やかだった。  昨日、美川さんが帰った後で音楽室へ戻った私を迎えたのは幸だった。彼女は私が失恋を慰めようとすると、ちょうど今の北野くんみたいに笑っていた。どうしてこんなに、みんな上手くいかないんだろう。上手くいかないのに、強くいられるんだろう。  私は準備室を通って第二音楽室の奥へ進み、美川さんが合奏で座る椅子の前へ。 「やっぱりない」  部員に一人一つずつ与えられる譜面台の、美川さんの物だけがなくなっていた。楽譜のファイルも、楽譜もクリップもペンも時計も、彼女の物がどこにもない。明日の掃除をサボるつもりで、一足早く持って帰ったのかもしれない。でもそうなら、あんな顔、するだろうか。 「吹奏楽部、やめるんだって、美川さん」  私の背中に事実を投げつけた北野くんは、自分の椅子に座って、また笑った。 「そうだと思った」  あとたった一日で夏休みなのに、ちゃっかり掃除をサボるのが彼女らしい。  私は指揮台に立って、カバーを被った楽器と、一つ足りない譜面台を順番に見ていった。最後に、一番前に座る北野くんへ視線をやる。暗い橙色に照らされた音楽室は空気が湿って息苦しかった。 「私さあ、走るのが好きなの」 「急だね」 「走ってる時って、自分が主役みたいな気分になれるの。世界の中心、って感じ。あ、地球っていう大玉を私の足が転がしてる感じ?」 「なんだそりゃ」 「だから、陸上部に入りたかったの」 「え? じゃあなんで吹奏楽部に?」 「なんでだろうなあ」  私が首を捻ると、北野くんも一緒になって考え込む。  この人は、何も知らない。  勝手にヒーロー扱いされてることも、美川さんに振られたことを知られてることも、私がどうして吹奏楽部に入ったのかも。  ずっと考えてた、馬鹿らしい妄想がある。もしも私があのドッジボールで活躍していたら、この今が、少し違ってたんじゃないかって。美川さんが現れる前の、あの小学生の時に。 「夏休み明けたらさ、私、また美川さんの事吹奏楽部に勧誘しようと思う」 「……本気?」  わりに凡庸な反応をする北野くんを眺めて私は、いっそこれで嫌いになれたらいいのにと思った。  血管の浮いた手の甲に触れてみたかった。シャツの襟から見える少し日焼けしたうなじに鼻先を寄せてみたかった。少しだけがっしりし始めた腰に腕を回してみたかった。すぐ赤くなる頬を撫でてみたら、なで肩気味の背中に顔を埋めてみたら、一体彼はどんな反応をするだろうって、そんなことを考えていた。  もっとずっと前から私は、邪な感情でいっぱいだった。応援したいだなんて、憧れているだけだなんて、ばかみたい。とっくにそんな綺麗な感情だけじゃ、なくなっていたくせに。 「――美川さん、ぜひ吹奏楽部に入部しませんか! って言ったら、驚くだろうなあ」  夏休みは、マウスピースを買いに行こう。美川さんが吹奏楽部に戻ってきたら、借りていたマウスピースを返して「私だって嫌いだよ」って言ってやらなきゃ。それからもう少し、話をしよう。きっとあの人は、人を好きになるのが怖いんだ。好きって、辛いから。だって今私は、死ぬほど辛い。 「それは名案だね」 「私、美川さんの思い通りにはさせてあげないの。悪い奴だと思う?」  体と心が、芯を取り戻していく。 「そんなわけない」と北野くんは可笑しそうに目を細めた。  きっとこの恋は、成就しない。でも私はまだ、失恋していない。恋を失ってない。そう私に言ったのは、幸だった。慰めるのはまだ早いと私を叱る彼女は、美しかった。  ねえ北野くん。もしも今とりとりじゃんけんをしたら、私のこと、とってくれる? 最後でもいいから、きっと選んでね。活躍なんか出来ないけど精一杯頑張るから。  北野くんは笑うのに紛れて目元を拭った。私は気が付かなかった振りをして、一緒に笑った。  知人Mとしての最初で最後の活躍をこれにしよう。そう考えたら、ほんのちょっとだけ、涙が出た。  強くも正しくも、生きられそうにない。だけどせめて美しく、なれたらいいなと、思う。
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