3.実行犯の謎の言葉

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3.実行犯の謎の言葉

滝川一家3人が都内から移転し「スカイパラダイス・マンション」に入居してから、31年の歳月が流れていた。 この間、彼は引き続き真面目に仕事に励み、商社マンらしく日々多忙な日々を送ってきた。 その出張先は国内のみならず、海外では米国、台湾、中国、オーストリア、アフリカなどを飛び回り、総合商社のビジネスマンとしてパワフルな日々を送ってきた。 その結果、子育ては妻に任せきりになり、ゆっくりと家庭を顧みる余裕はあまりなかった。 こうしたことから、ほとんどの休日は「日曜ドライバー」となって、ショッピングセンターに出かけて買い物に追われた。 それでも一人娘が大学に進学しやがて就職すると、ようやく夫婦水入らずで一泊二日の温泉旅行に出かける余裕も出てきた。 彼の妻子はともに運転免許証を取得していたが、やはり買い物のドライバーは夫の役割であった。 翻って、総合商社に長年勤めてきた滝川は60歳で定年を迎えている。 そして、最後の部長職を解かれるとともに「参与」という責任が軽く、主に後進の指導をするという教育係の立場にあった。 マンションの生活 これまでビジネスマンとして仕事人間だった彼は、家事や子供の教育などは妻の百合子に任せきりであった。 そのため、居住するマンション内では妻の百合子が子供の学校関係の繋がりから、その友人や知人との絡みによって数人のママ友との交流ができていた。 一人娘の悦子は、母親の教育方針に従順で、母のアドバイスに従い地域の公立高校から東京の私立大学に入っている。 大学を無事に卒業すると、彼女は新宿にあるアスレチック・ジムなどを経営するスポーツ系の新進企業に就職することができた。 その一方、滝川自身のマンション内の生活では、この約30年の間に輪番制で2回ほど管理組合の理事を務めていた。 この管理組合の規則により、10年に一度ほどの頻度で理事という役員の順番が回ってくる。 理事には役割分担があり、ほとんどがクジ引きで担当する業務が決定する。 彼は最初に「防災担当理事」に選任されると、その後も防災担当理事を歴任している。 滝川はその真面目な性格もあって「防火管理者」の公的な資格を取るなどして、与えられた任務には責任をもって誠実にこなしていた。 タイヤのパンク事件 滝川がマンションの住民となってから31年の月日が経過していた。 それは、2015年(平成27年)6月26日(金)の小雨降る朝の事であった。 滝川が外出のため駐車場に行くと、自分が所有する四駆車のタイヤの前輪がパンクさせられているのに気が付いた。 よく見ると、左側前輪と後輪のサイドウォールにピンホールの穴が認められた。 毎週休日には買い物予定があることから、急ぎ最寄りのJR駅前にある派出所(交番)に被害届を提出して、早めのパンク修理を依頼することにした。 派出所はパワハラの真っ最中 滝川は早速、徒歩30分をかけてJR駅前の派出所に駆け込んだ。 その交番内では、若い警官の4,5人が奥の方で直立不動の姿勢で整列していた。 そして、鬼の形相をした上司らしい中年の警官に激しい説教を食らっていた。 その上司の警官は顔を赤らめ、パイプ椅子に腰かけたまま語気を荒げて何やら若い警官達を怒鳴っている。 若い警官らは直立不動の姿勢で聞き入っている。 しかし、彼等の顔色には不満な様子も伺える雰囲気があった。 いわゆる上官による説教中であり、今では明らかな「パワハラ」に当たる行為であった。 そうした交番内の状況にあっても、市民の被害届が優先だろうと考えた滝川は、 「車がパンクさせられたので、被害届を提出したい」 とはっきりとした口調で申し出た。 しかし、誰もすぐにはその声に反応しない。 しばらくの沈黙が続くも、パイプ椅子に腰かけていた中年警官は、滝川の方をやおら振り返ると鋭い目つきで睨んできた。 「説教中だから黙っていろ!」と言わんばかりの眼光の鋭さで滝川の顔を睨んでいる。 再びの沈黙。 その後しばらくすると、長身の柔和な表情をした別の中年警察官がどこからとなく出て来た。 どうやら二番手の古参警官らしいが、穏やかな性格の人物にみえる。 彼は「今、手が忙しいので後ほど現場に行くから、そこに貴方の住所と電話番号、それに車種と車の置き場所をメモして下さい」などと言われた。 滝川は文句の一つも言いたかったが、抗議してもしかたないので彼はメモを残してすごすごと交番を退出した。 そして次には、交番から1キロほど離れた先にある馴染みの「ディラー(車販売店)」に向かった。 そこは、修理工場と洗車設備も有している大手自動車メーカーの直系の販売店である。 この30年ほどの間、彼はこのディラー店から新車を購入していた。 滝川は新しい物好きだったので、車の乗り換えは常に新車であるとともに、定期点検も欠かさずに実施していた。 従って、ディラー店にとって滝川は上得意の顧客といえた。 ディラー店の修理担当者は、 「警察の現場検証が終わったら電話連絡して下さい。すぐにレッカー車を出します。修理期間は同質タイヤの在庫次第なので、判明次第改めてご連絡致します・・・」 などとテキパキと対応してくれた。 雨中の現場検証 その日は、午後からさらに激しい雨模様になった。 そして夕刻の大雨の中、派出所の警察官によって現場検証がマンションの駐車場で行われた。 一般的に警察官は、二人一組で検証などを行うと考えていたが、駆けつけてくたれ警官は1人だけであった。 それは、派出所で応対してくれた背の高い中年の温厚な警察官だった。 雨の中を「白雨合羽」を着て、真面目かつ黙々と巻尺などを使って何やら計測をしている。 そんな現場検証が淡々と行われている中、雨の中をひょこりと1階に住む表山陽三が自宅から出てきた。 ブツブツと聞こえるような声で独りごとを喋り出していた。 但し、その言葉の内容は意味不明で何やら不気味で不信感が漂っていた。 警察官も不審の目でとらえて見ていたが、特に何の職質もお咎めもしなかった。 滝川自身も当時はその老人が表山陽三とは認識することができず、雨の中で傘を差さずに戸外に飛び出して来た不可思議な老人としか印象がなかった。 ただ少なくとも、この現場検証が行われている事を見知っており、意識的に家から出て来たものと推察することはできた。 滝川は、老人がパンク事件と知って冷やかしに出て来たようにも思えた。 だがこの事件以降には、タイヤ交換の終わった滝川の四駆車のタイヤのそばには、空き缶やゴミなどが捨てられるなどのことが度々起こるようになった。 彼は、これは故意による嫌がらせだと直感もしたが、雨の日に出て来たあの老人の仕業とは思えなかった。 何故ならば、それでは自分がパンクさせた真犯人だと名乗るようなものだから、そんな馬鹿な真似はしないだろうと推察していた。 但し、後に表山陽三が居住する場所は、1階の車が出入りするすぐそばにあることが分かったのだ。 つまり、表山の居宅と滝川の車が置かれた駐車場所は、目と鼻先にある近距離だったのである。 その居宅の窓からは、滝川の四駆車が出入りする様子が常に監視できるような状態にあった。 この事実を知ってからは、滝川は少しずつ表山老人に対して疑惑の目を向けるようになる。しかしそれが色濃くなるのは、このパンク事件から3年後のことになる。 接近する二人 滝川哲夫が『暗数事件』となる「塩素ガス中毒殺人事件」の真犯人と確信する「表山陽三」と初めて会話を交わしたのは、2018年(平成30年)5月のことであった。 既に「スカイパラダイス・マンション」に入居してから、34年の年月が経過していた。 従って、表山老人との出会いは「初めて会った」と言う訳ではない。 既にマンションなどにおいてすれ違っている可能性は十分にあるとともに、車がパンクさせられた夕刻の雨の中で忽然と現れた事も記憶として脳裏に残されていた。 しかし、これまで記憶に強く焼き付くような存在ではなかった。 既に滝川自身も商社の参与を卒業して、初老といえる64歳になっていた。 今は近くの私立大学にある教授らの「研究館」の受付係として、週3日ほど勤務する臨時職員として働いている。 この年滝川は、表山老人と5月から6月にかけて2,3回ほど駐車場の出入り口付近で偶然に会って、初めて会話を交わしている。 さらに、彼が東側A棟の1階101号室に単身住む「表山陽三」と確認できたのは、その年の6月下旬に行われた「マンション総会」後の時からであった。 この頃から滝川には、表山老人の顔や名前と、言動などが記憶にインプットされていく。 それは偶然にも、マンション総会において「滝川」と「表山」の2人が管理組合の理事に共に選任されたことによる。 繰り返しになるが、マンションの管理組合は各戸の所有者が輪番制で理事になる仕組みであり、滝川は3度目の理事就任であった。 表山が居住するA棟の101号室は、マンションの出入り口に最も近い場所で車が頻繁に出入りする。 その出入りによる、騒音や排気ガスの影響を最も受けやすい環境にあった。 不気味な言動 この年の5月、記憶が薄く面識がなかった表山老人から、初老になった滝川が一方的に話しかけられた。 だが、その内容は真に不可思議で謎に包まれたものであった。 これまで会話がなかった表山老人から、初老になった滝川がマンションの出入り口付近で突然呼び止められた。 表山は、駐車場の花壇に動物(犬か猫)の糞が捨てられていることに困った様子で話しかけてきた。 確かに、表山が指を指す地面には動物の糞が放置され置かれていた。 これまで確信的な面識もなく記憶の薄い人の声掛けに、 滝川はその糞を見届けると「そうですか・・・」とさり気なく応えた。 否定や興味を示さなかったのは、当時マンション内では「ペットの飼育問題」が取り沙汰されていたからである。 滝川自身は、ペット擁護派や規則の順守派にもなりたくなかった。 入居前には管理規則で「ペットの飼育は禁止」とされていた。 だが、高齢者の慰みに小型動物の飼育を認めようとする動きが出て来て、賛否両論がマンション内に沸騰していた。 そういった問題の渦中に、巻き込まれるのを本能的に避けたのであった。 さらに、その翌日のことである。 当該動物の糞は、滝川の自家用車の裏側に捨てられていたのである。 さすがに滝川は、表山老人が糞を移動させ自分の車の裏側に嫌がらせのために放置したものと疑った。 続いて、その翌月の6月のことであった。 滝川がマンション前(北側)の市営の小公園で子供が遊んでいるのを何気なく眺めていると、表山老人が近づいて来て呼び止められた。 「子供の遊ぶ声と親のお喋りがうるさいよね・・・」と声をかけられた。 再び、前回と同様に暗示的な言動であった。 何か問題提起をしているようにも思えた。 (何を言いたいのであろうか?) この小公園に最も近いマンションの居室は表山老人宅である。 ただ子供の少人数の遊ぶ声が騒音とは思えないので、その真意が読めない。 すると、その後に行われた理事会の席で<子供が遊ぶ騒音を問題視する>のではなく、 「マンション前の小公園で子供達が遊んでいるので、マンションに出入りの車は注意するように・・・」と理事になった表山が車を運転するマンション住民に向けた「運転の注意喚起」を呼びかける発言をしたのだった。 それは意見でも主張でもなければ、単なる老婆心からの注意喚起だと理事の間では受け止められた。 つまり、それ以上の問題提起も議論も行われることはなかった。 後に滝川は、表山老人の犯罪の可能性を探る中で、これらの表山の一人事に似た囁きのような発言の意図は「マンションに出入りする車両に対する騒音問題などを示唆していたのではないか?」と悟るようになる。 暗示 さらに、その後の表山との立ち話での言動は驚愕するものであった。 例えば①「いずれマンションで車に乗る人はいなくなる・・・」 ②「年のせいか、人を殺害する衝動を抑えられない・・・」などである。 独り事のように話しかけてくるのである。 親しくもない赤の他人である滝川にそんな物騒な話しを自虐的に吐露してくる。 当初は、その物騒な言動を何故自分に問いかける理由が全く分からなかった。 確かに、滝川自身もマンションで車に乗る一人ではあったが? これまでもそれらの真意が滝川に伝わらなかったので、心底の本音が思わず飛び出した感はあった。 それでも滝川は、まだ老人の意図や真意が判らず疑心暗鬼になるのであった。 しかし、表山に対してはただ恐ろしく、異常性があると感じるとともに強い警戒心を持つようになっていった。 それらの発言は、まるで自分の過去と未来の犯行を告白しており「殺人予告」にも聞こえるようなものであった。 その一方で、彼は犯罪の衝動を抑えきれないので「早く止めてくれ」と懇願しているようにも聞こえるのであった。 しかし、初めて会う親しくもない自分にそのような物騒で異様な発言をする事に違和感を覚えたものの、反発や否定する言葉を返すほどの論理的な根拠や警察沙汰にする勇気はなかった。 何故にそのような独白めいた言葉を吐くのかと疑念はあっても、それをただちに制御させるような行動に移せる現実的な問題レベルにはないと判断していた。 従って、誰にも相談できずに黙することしかできなかった。 後に、滝川自身がその塩素ガス中毒の被害者になった時に改めて振り返れば、あの発言は「殺人予告」だったのではないかと推理することができるものであった。
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