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雨は、長々と降っていた。
この雨の中をお出かけされるのですか、と、家族に言われたが、迫田との約束を反故にすることはできない。
吉之助は雨具を纏い、迫田の家に向かった。雨のせいで外は暗かったが、歩くのに困るほどではなかった。
やがて迫田の家に着く。
郡奉行とは言え、迫田は貧しい暮らしに甘んじている。
農民らから賄賂を受け取りさえすれば、もっと豊かな暮らしができるはずだ。他の役人はそうしている。
だが、それをしないのが迫田であり、だからこそ吉之助は迫田を慕うのだった。
(俺は上司に恵まれた)
吉之助は、自分を幸運だと思う。
どんなに理不尽なものを見聞きし、どんなに腐った先輩同僚の有様を見ても、いや、俺は染まらないのだ、良き方に切り開くのだと拳を握ることができるのは、迫田の背中があるからだ。
迫田さんが俺の前を行く限り、俺も迫田さんを習うのだ。
迫田は吉之助を迎え入れてくれたが、苦笑いをしている。
どうしましたか、と聞くと、雨漏りで家中水浸しなのだ、と返事がかえった。
「そんな。屋根の修繕は」
「追い付かぬ。なにしろ、ここのところ毎日が雨だ」
ちゃらん、ぽちゃん、ちゃりん。
家中、いたるところに鍋や皿がおいてある。
そこに天井から滴る水が溜まるのだ。器の数が足りない程で、畳にはあちこち染みができていた。
しかし、器に雨が落ちる音は、妙に楽し気で暢気ですらあった。
吉之助の家にも雨漏りがあり、雨が降るたびに鍋や手洗で受け止めるものだが、迫田の家はその上をいっている。
迫田の貧しさは、農民の姿の鏡写しである。
あの者共が貧しいのに、あの者共から年貢を吸い上げる自分たちが、どうして豊かでおれようか。余計なものは一切受け取らない迫田である。
しかし、この雨漏りはあまりにも酷い。
これでは、仕事の話どころではない。外となんら変わらないではないか。
迫田は押し入れを開いた。
何をするのかと思ったら、体をかがめて中に入った。狭い押し入れに籠りながら、吉之助に「来い」と言った。
唖然とする吉之助である。
「この家で雨漏りがしないのは、ここだけだ。まあ、狭い客間と思ってくれ」
生真面目な顔で、迫田は言った。
これでも冗談のつもりなのだろう。吉之助は、小さくなって押し入れに入った。大柄な吉之助が入ると、押し入れはもう猫の子が入り込むことすらできない位、ぎゅう詰めになった。
「申し訳ないです。体がでかくて」
吉之助は詫びた。そして、自分もまた、冗談を言っているようだなと思った。
迫田は笑いたいのを堪えているように見える。
ぽたん。ちゃりん。ぴちゃん。
家のあちこちから響く雨漏りの合唱は、笑い事ではない現実を、無邪気に楽しんでいるかのようだった。
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話し込んでいるうちに、雨は上がったらしい。
それほど遅い時刻ではなかった。外に出ると、黒い雲は去りかけており、まだ薄っすら青い空が覗いていた。西の方は夕焼けが見えている。
濃い赤だった。
弱い者をいじめる奴を、許すことができないのです。
農村の貧困について語る中で、吉之助は迫田に訴えた。賄賂を受け取り、己の欲を優先させる役人についての愚痴である。
迫田は、吉之助の愚痴については特に答えなかったが、雨があがり、吉之助を送り出す時になり、こう言った。
「さて、どちらが弱いものだろう」
外は雨があがったが、家の中は未だ、雨漏りが続いている。
迫田は肩を薄っすら濡らしていた。
吉之助が振り向くと、迫田は低く「虫よ虫よ」と呟いたのだった。
虫よ虫よ五ふし草の根を絶つな
絶たばおのれも共に枯れなん
吉之助は、はっと迫田の顔を見なおした。
迫田は穏やかな表情の中に、一閃の鋭さを持った。その目の奥に、厳しさが見えた。
「草にしがみついている側の方が、弱く脆いものかもしれないぞ」
と、迫田は言い、そうら、と、空を指さしたのである。
虹が出ていた。
未だ黒い雲が残る夕空に、虹は鮮やかに浮かび上がる。
虹の輪は、時折雲に遮られながらも、大きくあたりを包み込み、まるで貧しい農村を抱いているかのように見えた。
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