ねぇチャン ごめんなさい

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ねぇチャン ごめんなさい

姉とは6歳年が離れている 子供の頃は姉をねぇチャンと呼んでいた ねぇチャンは中学を卒業して 16歳で東京に行き働き始めた 中学校の時は友達がたくさんいて 学校にはちゃんと行っていたが 勉強が好きではなかった あまり出来なかったから 嫌いだったのかもしれない それと家が母子家庭で 裕福ではなかったので ねぇチャンはねぇチャンなりに 気を使い 、中学を卒業して 16歳で東京に行き就職した 中学校では相当な不良で グレてはいたが 学校をサボる事はなく 休まず行っていたが••実は 母の男関係の事でよく陰口を叩かれていたので 辛い思いをしていた、それでも 母には文句も言わず強がっていたと後から聞いた ねぇチャンは昔でいうスケ番グループ 当時はたまにプラモデル用の ボンドやラッカーうすめ液を買いに 行かされていた… その時は意味もわからず 素直に「お使い」と思い、言う事を聞いてた ねぇチャンの女友達もよくしてくれ みんなは弟の様に僕の事を可愛がってくれ 見た目の怖いお姉ちゃんたちも みんな大好きだった ねぇチャンとの思い出のひとつ  頭を洗うのが苦手だった僕の頭を よくねぇチャンは優しく洗ってくれた そのあとせまい湯舟に一緒に入って 歌をよく歌ってくれた だから上京した時はショックで もう会えないんだと子供心にそう思った ねぇチャンはあまり身体は 丈夫ではなかった 喘息があり、心臓もよくなかった そのせいか東京での仕事は二年も続かなく その後は水商売をするようになっていた 美人とは言えないが化粧映えする顔立ち その時に知り合った、北海道出身の 12歳年上の男性と結婚する 結婚して妊娠を機に夫婦で 神戸に戻ってきた時 初めて会った義理の兄にすごく緊張して そっけない態度だった事を覚えている ねぇチャンも都会の女性になり 大好きだった素朴なねぇチャンの 雰囲気は全くなくなっていた だからか?昔みたいに素直に 甘える事が出来なかった… たった3年ぐらいしか経って いなかったのに … 中学のねぇチャンがいきなり大人の お姉さんになって 、気恥ずかしくて 急によそよそしい言葉を使うようになり 呼びかたもちゃんになっていた しばらくして姪が生まれた 可愛い女の子で僕は15歳で叔父になった ただ、いつの頃か姉は 心の病いにかかり、次第に お酒に逃げるようになっていた 酒を飲むと訳が分からなくなり 時には3階のベランダから 飛び降りた事もあった 幸運な事にこの時は植え込みに 落ち、それがクッションになり大きな 怪我はしなくてすんだ まだ、姪は小さかったのに 大変だが義理兄がしっかりと 育ててくれていた それでもしだいに愛想を尽かされて 結局25歳で離婚 姪は6歳になる前だった 酒は少しだけマシになり 雇われママでまた水商売にもどり 2年後には再婚する すぐに赤ちゃんを授かったが 流産してしまい そのショックが大きく また、心の病が出てしまう 火事で家が丸焼けになってしまったこともある ストーブの火が移ったとのことだったが 本当はどうだったのか? 「もう、死んでしまいたい」 が口癖だった、この時もかなり 火傷をおったが運良く助かった それでも幸運な事に2年後に 男の子を授かった 向こうの家族は跡継ぎが出来たと 大喜びだったそうだ そんな過度な期待に耐えられなかったのか やめていたお酒にまた逃げるようになり アルコール依存症になってしまう 向こうの家族には離婚を求められ 33歳でまた、離婚をする 親の言いなりの情けない話しだ 子供は父親がひきとる とうぜん姉が面倒見れるわけがない 酒に溺れ、酔うと人が変わり 嫌われて誰もが離れていく よくある酒に飲まれる人間 酒癖の悪いタチの悪い人間になって 落ちぶれてしまった 何度も助けようと治そうとしたが 無理だった… 姉は34歳 俺は28歳 俺も20歳で結婚していた 子供も出来ていた その頃みんな 姉も母も俺も歩いて5分も掛からない ところに住んでいた だから、姉ちゃんは酔っては 母や俺を電話で呼んで、くだを巻く 行かないと、決まって 「死んでやる」と言う 言えば来ると思っていたんだろう だけど何度も聞いているから もう効果はない ある日、姉ちゃんの家に行くと いつにも増して 酒癖が悪く、絡みがひどく最初はなんとか 聞いてやっていたが あまりにも酷く 平手で殴ってしまった 「いい加減にしろ!」 と胸ぐらを掴み平手打ち 姉ちゃんは 「うるさい」「うるさい」を繰り返し 泣き始めたのでベッドに運び 寝かしつけて帰った それが、姉ちゃんと交わした 最後の言葉だった … 2日後の夜、母から電話があった 姉ちゃんが死んだ! 急いで家に行った そこにはベッドで寝ている姉ちゃんが…… ウソだと思った…思いたかった... 冷静に身体を軽くゆらして姉ちゃん と呼んだが返事がない 呆然としてベッドの横に座って ずっと姉ちゃんの顔を見ていた しばらくして、母は 先生の診断で急性心不全と死亡診断 書いてもらったと 何でも原因がわからなきゃ心不全 お酒と喘息の吸入 飲みかけの心臓の薬があった お酒を飲んでの薬が よくなく、喘息で苦しくなって そのまま亡くなったのかもと それなら、かなり苦しんだはず 酒で眠るように亡くなったのなら まだ、救われる わからない 薬も飲んだ量がわからない 自ら選んだ死なのかもしれない 理由はわからないが 悲しすぎる死だった 今日は久しぶりに5歳の息子と会えた日 暗くなっても外で1人で遊んでいたから となりの人が気にして 様子を見に来てくれたら テーブルの横で倒れていたそうだ 母いわく 何も知らない息子は死んだ姉の横で ずっと一人遊びしていたそうだ 悲しすぎて涙も出なかった 旦那さんが迎えにきた 姉の事を少しだけ気にして 何もなく息子を連れて帰っていった 息子はママが死んだ事も知らずに みんなの意味がわからず、素振りが理解出来ず 大泣きしてしまった 数時間後 兄弟が集まりこれからの事を決めた この頃には気持は少し落ち着いていた お通夜は ドライアイスで結露する棺を 俺は一生懸命ずっとわけもなく拭いていた 拭く度にずっと姉の顔を見ていた 姉ちゃんから離れたくなかったのだろう いとこ達はお通夜はみんな 起きて一緒に夜を明かしてくれた さぞかし姉ちゃんも寂しくなかったと思う 告別式もすみ 火葬場で 納めの式を行い最後のお別れ そして火葬 火葬を待つ間、そとから 昇っていく煙を見ていた 煙が多く出始めるのを見て あぁ行ってしまうんだと…… 骨上げでは 姉ちゃんの骨はほとんどなかった 病気で本当にもろくなっていたのかも しれない、のどぼとけ もわからないぐらいだった 身体も骨も最後はぼろぼろだった 短すぎる人生だった 不幸せな人生だったと思う 姉ちゃんは悲しすぎる人生だった  俺は怒って殴ってしまったのが ねぇチャンとの最後だった 今でも悔やまれ悲しみは消えない 告別式でお坊さんは 人の死の悲しみはいつかは 薄れていく、時間とともにと… しかし 私は今でも悲しみと後悔は消えない 優しくしてくれた ねぇチャンはもういない 優しくできなかった 私だけが残ってしまった 一生悔やんで生きていかないといけない ねぇチャンともう一度会えるのなら 優しい言葉を掛けてあげたい ....あれから 人はいつ死ぬかわからないと知り 今が最後になるかも知れないと思う様になった だからいつでも 別れ際は笑顔で言葉を交わすように 優しい言葉をかけて別れるようにしている 最後の言葉で二度と後悔したくないから もう何十年も経ってしまったが ねえチャンに会いたいよう…
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