01.水たまりの中で

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01.水たまりの中で

 水たまりの中で動けないままの車椅子を通行人たちが取り囲んでいた。困惑と申し訳なさを顔に浮かべた若い男が乗っている車椅子を、通行人のひとりが動かそうとしているが、車椅子はびくとも動かない。  熊田はランニングを中断し、通行人たちに声をかける。 「どうしたんですか、いったい」 「水たまりの中で前輪が溝にはまって動けないんです」  通行人が熊田にそう説明する。 「なるほど、そりゃ困ったね。どれ、俺が動かしてみましょう」  ウインドブレーカーにジャージのパンツ姿の熊田の体は小柄だ。さっきまで車椅子を動かそうとしていた通行人は、この人が動かせるわけないよなと言いたげな顔。  それでも熊田は通行人に変わり、車椅子を軽く動かしてみる。  車椅子の前輪は水たまりの底にある溝か何かにしっかりとはまり込んでしまったみたいで、ちょっとの力では動かない。  けど、俺なら。熊田は思い切り力を込める。鍛え抜かれた筋肉が大きく膨らむ。筋肉だらけの腕や背中の力をこめると、水たまりの中で前輪が浮き上がる手応えを感じた。  いや、よかったよかった。  見かけに関わらず強い力を持った小柄な男の登場で、車椅子が無事に動いたことを見届けた通行人たちは、それぞれの目的の方向へと散っていく。 「ありがとうございます。本当に助かり……、って熊田さん?」  車椅子に乗った若い男は驚きの顔。そして喜びの顔に変わる。 「そうです、熊田陸斗です。嬉しいな、俺のこと知ってるんだ?」 「当たり前じゃないですか! 僕、熊田さんの大ファンなんです」  お世辞かと思いきや、玲矢と名乗った若い男は熊田の三ラウンドテクニカルノックアウトで相手を下したデビュー戦を語り、チャンピオン防衛戦で敗北の挙句にケガを負った熊田の具合を心配する。 「俺の方こそ、心配してくれてありがとう。嬉しいよ」 「でも、熊田陸斗さんに他の人は気づきませんでしたね……」  玲矢が申し訳なさそうな顔でそう言うと、熊田は苦笑する。 「ボクシング人気なんて、今はそんなものだからさ」  そのとき、玲矢は何か大事なことに気づいた顔を浮かべた。 「ケガの治療中なのにすみません。車椅子を動かしてくれて」  玲矢は彗星のようなまっすぐな目で、熊田にお礼を告げる。 「いいんだ、もうほとんど治ってるんだから」 「でも、まだケガの治療中なんでしょ? 本当に悪いなって……」 「気にするな。俺にとってはなにもかもがトレーニングなんだ」 「トレーニング? 水たまりで動けない車椅子を動かすのも?」 「そうだね。ケガしたのも車椅子を動かすのも、俺にとっては絶好の雨が降ったみたいなものだから」 「雨が降った?」  玲矢が目を丸くした。
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