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(どうして私がこんな目に……)
佐々岡陶子が人生において望むものは、ただ一つ。
「安定」だ。
それに対して、もっとも遠ざけておきたいのが「不安」だった。
そして今、陶子の「安定」は揺らぎ始め、「不安」が目の前まで襲いかかって来ようとしている。
(どうして私がこんな目に……)
スマートフォンの画面を睨みつける。そこには夫の靖幸から送られてきたメールのメッセージがあった。
《急に後援会の人たちと飲み会になったんだ。だから今日は、このままホテルに泊まることにするね》
(嘘つき……)
父親の事務所に電話したら、後援会との集まりなどないと言っていた。
つまり仕事が終わった後に、女とホテルで会うのだろう。
「お父さまに言いつけてやろうかしら……」
あえて言葉にしてつぶやいてみたが、すぐに虚しくなった。
自分には、そんなことをする勇気なんてない。それは誰よりも、陶子自身がわかっていることだったからだ。
陶子の父親である博は政治家だ。
週刊誌や政治部の記者に言わせると「超大物」という枕詞がつくらしい。
性格は、昭和の悪しき習慣を見事に踏襲している人、といったところだろう。
今どき珍しいほどの男尊女卑の思想の持ち主で、女は黙って三歩下がってついて来い、などと平然と言ってのけるタイプだ。
それでもまだ、当人が時代に合ってないことを自覚しているのなら、まだかわいげがあるというものだろう。
ところが博の場合、「女は男を立てるのが当たり前」だと、心底信じているのだから、これほどタチの悪いものはない。
おまけに女性の貞操観念には恐ろしいほどの潔癖なクセに、反対に「男なら浮気の一つや二つあって当然」が口癖だ。
そんな父親に夫の不貞を訴えたところで、答えは見えている。
「そんなくだらないことで、いちいちワタシを煩わせるな!」
と、一喝されて終わりだ。
だから陶子が諦めたのも、納得がいくというものだろう。
だからといって靖幸自身に「浮気はやめて」と言ったら、「わかった」となるだろうか? いや、間違いなく波風が立つだろう。
お願いしてやめるなら、初めから不倫などやらないはずだ。
何より、それは陶子がもっとも避けたい「安定」を失い、「不安」が支配することを意味するのだった。
(どうして私だけがこんな目に……)
夫の靖幸は、髪の毛は短い方が好みだと言った。だから長かった髪を切り、今は肩までのボブにしている。
濃い化粧は好まないのでナチュラルメイクを心がけているし、派手な服は極力避け、ネイルも薄いピンクか、透明のものしか選ばないようにしている。
いずれ父親の跡を継いで政治家になるであろう靖幸のために、できる限りのことはしてきたつもりだ。
(それなのにどうして私だけがこんな目に……)
「奥さま、どうかされましたか……」
陶子は我に返ると、慌てて頬の涙を拭った。
この家には二人のお手伝いさんがいる。そのうちの一人である高梨京子だ。
ボーイッシュなショートカットの髪型は、彼女の活発な性格をよく表しているようだった。美人というより、可愛らしい顔立ちだ。25歳だが、見た目は間違いなく年齢よりも幼く見える。
ただし、性格に関しては、彼女よりも3つ年上の陶子よりも、京子の方がはるかに大人びていているな、と常々感じていた。
それはきっと、彼女がシングルマザーであることも少なからず影響しているはずだ。
「こんな暗いリビングで何をなさってるんですか? 電気をつけましょう」
背中を向けていたため、京子の表情はわからなかったが、さぞかし不審げに思っていたことだろう。
明かりをつけるため、スイッチがあるところまで歩いて行く足音が聞こえる。
「やめて!」
意図せず叫んでしまった。
気配で京子が息を呑むのがわかった。もしかすると、怖がらせてしまったのかもしれない。
「京子ちゃん、お願い……。電気はつけないで……」
すると京子は「わかりました」と言った。
ここで根掘り葉掘りと聞いてこられていたら、きっと叫び出していたかもしれない。
雇い主の私がいいって言ってるんだから、言う通りにして! と。
「それでは奥さま、わたしはこれで失礼してもよろしいでしょうか」
「ありがとう……ごめんね、娘さんのお迎え、遅くなっちゃったね」
「いえ。大丈夫です」
京子は「郵便物はキッチンのテーブルに置いておきます」と控えめに言うと、そっと出て行くのだった。
リビングのドアが閉められる。
こんなに静まり返った状態でなければ、人が出入りしたことにさえ気づかなかっただろう。
これは陶子が普段から「ドアの開け閉めは静かにやってね」と、注意しているからだ。京子はちゃんとその言いつけを守ってくれているのだ。
それに対して──
京子と入れ違うように、バタバタバタとスリッパを擦りながら歩いて来る音がする。フローリングの床が傷つくのでやめてと何度言っても直らない。
陶子の苛立ちはさらにましていくようだった。
「奥さま! アタシもこれで帰っていいですかね?」
しゃがれた声が陶子の癪に触る。
もう一人のお手伝いさんの、梶百合子だ。
こちらは60歳で、佐々岡家に勤めてもう30年以上になる。若い京子だけだと心許ないからと、父親の博が寄越したのだった。
ベテランなのに、気が利かない。ガサツで、何より──
「あれ? 奥さま、泣いてらっしゃる? お腹でも痛いんですか?」
この無神経さというか、人の機微というものを感じる力が欠落しているところが、たまらなく腹が立つのだった。
「トイレに行って来たらどうです? 溜まってるものを出せば、スッキリしますから」
ガハハハッと笑う百合子には、ほとほとうんざりだ。
「今日はもう結構だから、梶さんも帰っていいわ」
「そうですか? じゃ、アタシはこれで」
案の定、「バタンッ」とドアは閉められた。
「まったく……」
やっとやかましい百合子が返ってくれたと思っていたのだが、ドアの向こうに消えてもなお、あのベテランのお手伝いは陶子を苛立たせるのだった。
「京子! アタシより先に帰るなんて、いい度胸してるじゃないか!」
(またやってるのか……)
百合子は何かと先輩風を吹かせては、京子をイビっているのだった。
陶子はテーブルを両手で叩くと、勢い良く立ち上がる。
決して正義感ではなかった。
ただこの日は、腹に据えかねている怒りが行動を起こさせたのだった。
「百合子さん!」
ドアを開けると、廊下の向こうでは京子の腕をつかんでいる百合子がいた。2人とも目を大きくさせた状態で陶子を見ている。
普段はこんなにも声を荒げることがないため、驚いているのだろう。
「京子ちゃんをイジメるのはやめなさい! いい歳をしてみっともない!」
陶子の一喝が聞いたようだった。
百合子は口惜しそうに下唇を噛むと、フンッという感じで向きを変えて出て行ってしまう。
しばらくポカンとしていた京子だったが、やがて我に返ると、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「い、いいのよ……気をつけて帰ってね……」
再び京子が何かを言いかけたが、陶子は手を上げてそれを制した。その後、逃げるようにしてリビングに戻ったのだった。
こんなに感情を爆発させてのは何年振りだろう。戸惑った部分もあるが、それまでの悲しみや情けなさといった気持ちがいくぶん和らいだのは確かだった。
腹を立てたからなのだろうか。
自分が空腹なことにも、この時になって初めて気がついた。
(京子ちゃんが、何かを作ってくれているはずだけど……)
立ち上がってキッチンの方へと行く。その途中で、テーブルに郵便物が置かれたのが目に入った。
(そう言えば、京子ちゃんがここに置くって言ってたわね)
夕刊の他に、封筒が何通かあった。
たいていは何かの案内や、カタログの類だ。いつもならサッと目を通したら、すぐにゴミ箱に捨ててしまうのだが、この日は違った。
陶子は一枚の葉書を手に取ったまま、動きを止める。
葉書自体はなんの変哲もないもので、どこかの画廊で鳴宮涼介なる日本人画家が個展を開くという案内だった。
陶子はこの画家のことは知らい。というよりも、もともと画家の名前なんて数人しか知らないのだ。
問題は、端に添えられた手書きで文字の方だった。
自然と表情が険しくなってしまう。
《ドアマットゲームのことで、話したいことがるの》
急いで差出人の名前を見る。
山崎真由美──
陶子は息を呑む。
せっかく落ち着きはじめた気持ちが、再びざわつき始めるのだった。
かつて殺したいほどに、憎んだ女の名前だったからだ。
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