第3話 恋慕

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 借りた傘の礼は、形式上は返した。今思えば、菓子折りの一つや二つあれば良いのだが、こういう所が独り身の由なのだろうか。  例え唐変木(とうへんぼく)だろうが、聞かねばならない。 「――お名前を伺ってもいいですか」  いい歳した男が、何を恥ずかしがっているのか。散々販売の仕事では営業(ばなし)をしている癖に、何を今更。  私の上目遣いを見て、女は微笑みながら答えた。 「私は、望月甲斐と申します」  相変わらずよく通る、凜とした声である。『かい』は、甲州の甲斐と同じ字だという。 「私も、お名前を伺っても宜しいですか」 「僕は、新井和仁と言います」  恐ろしく幼げな自己紹介に思えた。 「歩いて十分くらいなのに、昨日、初めてお目にかかりましたね」  甲斐は悪びれない様子で問いかけてくる。  確かに会ったことはない――。  それもそのはず、私の付き合いはそんなに広くない。借家の近所三軒程度である。知らせが何か回ってきても、そこまでだ。  しかし、歩いて十分という近所であるのに、全然意識に止めていなかったことは、やはり申し訳なかった。  ――だから、色々と話をしたかった。 「ところで、海外の新聞を仕入れるのは、大変でしょう?」  多くの新聞の日付は歯抜けである。  一週間飛んでいるものもあれば、連続しているものもある。そもそも月刊新聞のように、一年分全部余っているものもあった。  書籍の方は、至極真っ当な本屋の印象だが、最新の雑誌類はほとんど置いていなかった。街の本屋というより、まさしく古書店の風情である。  もっと言えば、本屋なのに、本より新聞の方が多いのではないか。 「もともと、父の知り合いから仕入れていたんです。顔だけは広かったんですよ」
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