14歳の夏の頃 その1

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14歳の夏の頃 その1

 私が、その朽ちかけた教会に初めて足を踏み入れたのは、十四歳の夏の頃だった。  それまで夏の休暇といえば、人のごった返すビーチや、名前も知らない彫刻家の作品が置いてある美術館にばかり連れていかれたものだが、その年は違った。  父が突然言ったのだ。  曰く、別荘を買った、と。  とはいえ、お嬢様がバカンスに訪れるような豪華なものでもなく、『小屋』と呼んだ方がしっくりくるような、ちっぽけなログハウスである。  休暇の初日に到着してからというものの、父は日がな一日中、窓辺に腰かけ本を読んでいた。  母は趣味の裁縫でよく分からないキャラクター(働いている保育園で人気らしい)のぬいぐるみを作って過ごしていた。    私はというと、持参していた学校の課題を真面目にこなし、父に倣って読書をたしなむ……なんてことはなく、別荘の周りを探索することに時間を費やしていた。  人の多いビーチも、美術館も苦手だが、家の中にずっと閉じこもっているのも苦手だった。  ちょうど父から旧式のフィルムカメラを譲り受けたばかりで、それを試したい気持ちもあった。 ●   父の買った別荘は『リディリア』という海に面した田舎町、その外れにあった。  周囲に他の民家や店はなく、買い物をするには30分ほど歩いて街の中心部にまで出向かねばならない。  率直な感想だけ言えば、暮らすには不便な場所だった。  まあ、滞在中は管理人夫妻が食材も日用品も届けてくれるというので、別荘として過ごすには困らないのだが。  そんな不便さと引き換えに、景観は見事なものだった。  別荘を出て西に少し歩けば、切り立った崖に突き当たる。  潮の匂いのする風を受けながら、深い青を湛えた海原を一望することができた。  朝日の昇りゆく時間、天高く光の降り注ぐ時間、夕陽の沈みゆく時間――あらゆる時間、その場所でシャッターを切るのが、私はとても好きだった。    その日も、カメラを構えていた。  太陽は水平線の向こうへと沈みかけていた。  角度を変えようと、レンズの向き先を右にずらす。  ファインダーの端に、建物が見えた。  屋根の上に乗った十字架がくっきりと見える。  そんなに距離は無いようだった。  気づけば私は、甘い蜜に誘われる蜂のように、建物の方へと歩を進めていた。  写真を撮るのにも飽きていた頃だったのだ。    教会は、野原にぽつりと取り残されるようにして建っていた。  白い壁は薄汚れ、所々に蔦がはびこっている。  ある一角は、朽ちて崩れ落ちていた。  長いこと放置されているのは明らかで、幽霊でも出るのではないか、と私はとっさに思った。  真夜中でもないというのに、だ。  それでも足を踏み入れようと決断したのは、よほど代わり映えの無い休暇に飽き飽きしていたからかもしれない。  あるいは度胸を試したかっただけかもしれない。  あるいは、『彼女』に呼ばれたからかもしれない。  茶色のペンキのはげかけたドアを壊さないように、そっと押し開けた。    祭壇を正面に据え、何枚かの絵画が壁を彩っていた。  天井近くのステンドグラスが、床に赤と青の光を落としている。  信者が祈りを捧げるベンチは掃除をしたばかりのように、埃一つない。  まるで時を巻き戻したかのように、美しく整えられた状態を保っていたのだった。  それ自体も驚くべきことではあった。  しかし、それ以上に私を驚かせたのは、ベンチの一つに腰かける女性の姿だった。  人形のように整った顔立ちの女性だった。  シンプルな紺色のワンピースを纏っているだけなのに、不思議と目が惹きつけられた。  腰まで届く銀髪を揺らしながら、彼女は手に持った針を器用に操っていた。  視線は手元に注がれ、私の存在にも気づかないようだった。    まさか人が居るとは思わなかった私は、たっぷり三十秒その光景をぼうっと眺め、 「誰?」  ようやく声を絞り出した。  ゆっくりと女性の目がこちらを向く。  崖から臨む海のように深い青の瞳だった。  一度それがぱちりと瞬くと、女性は慌てたように立ち上がった。  膝から布の塊が滑り落ち、女性はまた慌ててそれを拾い上げた。 「あら、信者の方かしら!? ごめんなさい。私ったら気づかなくて……」  「どうぞ、こちらに」とうながされるまま、彼女の隣へと腰かけた。  ――ではなく。 「あなたはシスター?」  再び問うと、首を横に振った。 「ちょっと違うわ。でも、ここに住んでいる」 「この教会に?」  こんなにボロボロなのに?  と言いかけ、慌てて口を閉じた。  名前も知らない人に正直なことを言えるほど、私は図太くはない。 「あなたは初めて見る子ね。この辺に住んでいるの?」 「ううん。夏の間だけ、遊びに来てる」 「そうなの。素敵ね」  そう微笑んだ顔は、昔近所に住んでいた大学生のお姉さんに似ていた。  まだ幼かった私は事あるごとに遊んでもらっていたのだが、学校の卒業と同時に彼女は引っ越していった。  もちろん、ここにいるのは別人だが、ちょうど記憶の中その人と同い年くらいにみえるせいだろうか。  初めて会った人とは思えない懐かしさを胸の内に感じていた。 「もう夜になるわね。この辺りは危ないから、そろそろ帰った方がいいわ」  女性はステンドグラスの方をみやると、そう言った。  彼女が言う通り、差し込んでいた光は弱くなっていた。  こんな野原に危険もなにも無いだろう、とは思ったが、戻りが遅いと両親が心配するのも事実だ。  ベンチから立ち上がると、教会の出入り口へと向かった。 「あの……あなたの名前は? また会える?」  去り際、私がそう問いかけると、女性は嬉しそうに笑った。 「シャロよ。……ええ、また会いましょう。お嬢さん」  それが、私とシャロの出会いだった。
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