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不安定
「……今回、このような謝罪の場を設けて頂き、感謝しております」
鋭い視線が突き刺さる。
その視線には怒りがみてとれた。
私は足元の畳をじっと見ていた。
頭から滴り落ちる水滴がポタポタと畳を濡らしていく。
ただそれを見るしかなかった。
*
目標:結婚。
「森田さん、最後に昇格試験についてなんだけど」
貼り付けた笑顔のまま、少し眉を下げて申し訳なさそうな表情を作った。
「すみません。今回も、様子見とさせてください」
何度聞かれても、私の答えは変わらない。
だって変に昇格してしまったら、責任と拘束時間まで増えちゃうし。
「そうか。残念だなぁ、よく頑張ってくれてるし、推薦出すよ?」
穏やかな性格の二宮部長は、なぜか今日に限って食い下がってきた。
よく頑張っていると褒められて嬉しいものの、ちょっと私の心にさざ波が立つ。が、そんな心情の変化は無視だ。
「プライベートが忙しくなるかもしれませんので、また落ち着いたら考えたいと思います」
彼氏の辰己はいつも言っていた。家に帰って温かい食事と出迎えがあるだけで癒されると。自分が激務だからこそ、妻にはゆっくり家で待っていてほしいのだと。
今でさえ辰己が家に来るとなると定時で帰らないと間に合わないのだ。一緒に住んだらどうなるか。
これは優先順位の問題だ。
本当は私だって仕事をしていることを理解してほしかったが、激務で疲れている人に負担をかけたいわけじゃない。どちらかが譲らないといけないとなったら、収入が低い私が譲るべきなんだろう。きっと。
私の目標は結婚なんだから間違ってない。はず。
「まあ、女性は結婚したら旦那さんのこととか妊娠とか色々あるもんねぇ。あ、コンプラ違反になるかな。ごめんね」
二宮部長は最近の風潮に理解がある上司、なんだろう。すでに口に出しているが、まあご愛敬。私はいつものように無言でニコリと笑んで流した。
ざわざわと心が乱れてしまったが、今回も無事に三か月に一度の面談が終わった。
ミーティングルームから出たところで、俳優のような出で立ちの男が急に視界に現れ大げさに驚いてしまった。
二宮部長は男の姿を確認すると、親しげに手を上げた。
「花田くん、課長に昇任おめでとう。安心したよ」
「ありがとうございます、部長のおかげです。これから気合い入れて恩返ししていきますよ」
うちの会社にやってくるやいなや彗星のように営業部のエースとなった花田さんは、二年目にして課長になるらしい。
主任昇格試験すら渋っている私とは大違いである。きっと走っているレールが違うのだ。
「いやー花田くんをうちの会社に呼び込んで正解だったよ! これから花田くんも人を育てる側の立場なんだから、森田ちゃんに優しくするんだよ。二人共期待しているからね」
爽やかな笑顔の花田さんは二宮部長のお気に入りだ。なんてったって花田さんが他社から引き抜いてきたともっぱらの噂だ。そして娘さんの好きなアイドルに似ているらしい。確かに綺麗な顔をしているが、アイドルより確実に愛想が無いのは確実だ。
乙女のようにはしゃぐ二宮部長の元に次の面談者が現れ、その後姿を見送って。
頭上から重く、それはそれは不機嫌なため息が聞こえた。チラッと上を見ると、先ほどまでの”爽やかエース花田くん”の面影は一切ない。
「言われるまでもなく、俺は今までもずーっと優しかったよな?」
脅迫である。
「モチロンデス」
私はいつものように目の焦点をぼかし、ハキハキと答えた。
なにを隠そう、営業部のエース花田さんは内弁慶ならぬ社内弁慶であった。
よい顔面とスタイル、そして営業手腕はあるのに社内弁慶。社内のマドンナである受付の彼女や、広報部の彼女たち、そして何人の営業アシスタントを泣かせてきたか。恐怖で。逆に言えば、前職の実績や入社後の成績もあるのにも関わらず課長になるまで2年かかったのは社内弁慶ゆえかもしれない。
天はバランスを見てるんだな。
失礼なことを考えていたのが伝わってしまう前に仕切り直して業務に戻る。
私の今の仕事は、その社内弁慶の営業アシスタントである。最初は生け贄かと思ったが、生け贄なりに足掻いて今になる。
まだ交代と言われてないので、なんとか上手く生きながらえているということだろう。
「えー、2時間ほど前にX社から連絡がありましたので、資料と事例集をまとめてドライブに入れておきましたので確認してください」
「はいよ」
私の話を聞きながら歩き始めた花田さんの斜め後ろをキープ出来るように足を動かした。なんせモデルのようなスタイルである花田さんの歩幅は広い。平均身長しかない生け贄……じゃなかった、アシスタントはもはや競歩だ。
息が切れそうになりながら「あと、Y社から見積書の件で……」と続けた瞬間、前を優雅に歩いていた花田さんが急に立ち止まった。
どゎ!と潰れたねずみのような声を出しながら花田さんの背中に顔面をぶつけてしまったが、スーツは大丈夫だろうか。顔面魚拓がついていたら終わりの始まりだ。
「森田さ、人生楽しい?」
「は?」
餅つきのテンポでついつい心の声が漏れてしまった。口を抑えた手の勢いが良すぎてベチンと音が鳴った。
アイアンクローでもお見舞いされるかと身構えたが、花田さんは無表情で見下ろしたままだ。
「他のやつのサポートばっかりしてつまらなくない? 昇格試験受けろよ」
もしかして先ほどの面談を聞いていたんじゃないだろうか。
あのミーティングルームは外に音が漏れやすいと総務に連絡しておこう。
「……こういう方が向いてるんです」
防御するようにヘラリと笑った。
仕事が私の人生の責任をとってくれるでもないのだから。
「俺が課長になるんだから、お前も主任ぐらいになっとけよ」
「無茶言わないでください。私はそこそこでいいんです」
ふーん、と首を回しながらまた前を向いて歩き始めた花田さんの後ろで必死に足を動かす。
私のささくれた心を粗めにヤスリがけしてくれた花田さんの問いは、しばらく私の心の中でジクジクと痛んだ。たぶん花田さんなりの応援?とか励まし?なんだろう。だけど、しばらく痛みが存在を主張していた。
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