3-9 彼は、彼女を追いかけた。

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3-9 彼は、彼女を追いかけた。

 カレンにとって、その日は、特別でもなんでもない。けれど大切な、普通の一日のはずだった。  チェストリー、ショーンとともに、馴染みの飲食店へ。  自分たちが採集や加工をした食品を卸すためだった。  母国を離れ、あらゆることが変わってしまったが、周囲の人々がよくしてくれるおかげでなんとか生活できていた。  この店の主人も、カレンたちを贔屓にしてくれるのだ。  カレンは、偽の夫・父の役を務めてくれるチェストリーにはもちろん、村の人々にも心から感謝していた。  店には、旅の者と思われる男二人がいた。  一人は酔い潰れてテーブルに突っ伏し、もう一人はフードをかぶって俯いていた。  昼間からずいぶん飲んだなあ、ぐらいには思ったが、特に関わる必要もないからそっとしておくつもりだった。  しかし。 「おじたん、だいじょーぶ?」  息子のショーンが、テーブルに突っ伏す男に近づき、話しかけてしまった。  ショーンは優しく懐っこいタイプで、こういったことが起きるのも珍しくはない。  村の者だったらあまり心配はいらないが、相手は誰かもわからない旅の人間。それも、だいぶ酒を飲んでいる。  カレンは慌ててショーンを回収しにいった。 「旅の方ですか? 急に申し訳ありません。この店にはよく来るものですから、この子ったら、慣れすぎちゃっ……て……」  そこで、男と目が合う。 「ワート、さま……?」 「カレン……」  ショーンが話しかけた相手。  それは、ここにいるはずのない男――ジョンズワートだった。  最後に会ったのは、誘拐と死亡を偽装して逃げ出した4年前。  そのあいだ、彼に関する情報はなにもいれてこなかったが、間違いない。カレンが、彼を見間違えるはずもない。  ただの酔っ払いだと思っていた男は、ホーネージュ王国の公爵で、カレンの夫でもあったジョンズワート・デュライトだった。 「あ、ああ……あ、あ」  ジョンズワートに、出会ってしまった。自分だけならいい。ジョンズワートにそっくりのショーンまで見られてしまった。  きっと、ジョンズワートはショーンが自分の子供だと気が付いただろう。  少し見ただけでわかるほどに、二人はよく似ているのだ。  息子の手を握り、カレンはよろよろと後退していく。  そんなカレンの後ろに立ち、彼女を受け止めたのは、共にこの店に来ていたチェストリーだった。 「お嬢、大丈夫です。大丈夫ですから、落ち着いてください。ショーンにとっても、悪いことにはなりません。大丈夫ですから……!」  しかし、あまりの事態にカレンにそんな言葉は届かない。  ジョンズワートに、ショーンの存在を知られてしまった。  彼が再婚していたとしても、ショーンは公爵の長男だ。  ジョンズワートだって、自身の息子を放置するわけにもいかないだろう。  このままだと、色々なことが変わってしまう。壊れてしまう。    どうしよう。どうしよう。どうしよう。  あまりにも突然のことに、ろくに動かない頭でカレンが出した答えは――息子を連れて、ここから逃げること。だった。 「カレン!」 「お嬢!」  チェストリーの手から抜け出し。息子を抱き上げ、カレンは駆け出す。  ジョンズワートとチェストリーが自分を呼んでいるが、振り返ることはしなかった。  ショーンが驚いていること、不安がっていることがわかる。けれど、止まることも、事情を説明することも、できなかった。  しかし、この状態で、ジョンズワートがなにもせずカレンを見送るだけなわけもなく。  15歳のとき、結婚の申し出を断られた彼は、カレンを追うことができなかった。  けれど、今は。  ここまでやってきて、自分そっくりの子供まで見た、今は。  ジョンズワートは、カレンを追いかけた。チェストリーもそれに続く。  店に一人残されたアーティは、突然のことに動揺しつつも、チェストリーの言動を思い返していた。 「あいつ、俺たちが来るとわかっていたのか……?」  ジョンズワートと再会したカレンに対して、チェストリーは大丈夫だと繰り返していた。  ショーンーーあの幼子のことだろう――にとって悪いことにはならないとも。  もしもチェストリーが本当のカレンの夫で、あの子の父親だったら、そんなことは言わないだろう。  ジョンズワートを引き離し、カレンとともに逃げるはずだ。  だが、彼は。カレンとジョンズワートに話して欲しいように見えた。 「そうか、あの手紙。お前だったんだな、チェストリー」    
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