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ドアの向こうは小さな会議室になっていた。窓にはブラインドがかかり、中は薄暗い。落ち着きなく部屋を見渡して、紗奈はふとその奥にチャコールグレーのスーツを着た男が立っているのに気付いた。男は紗奈が自分を見ていることに気がつくと、すっと目線を合わせて微笑みかけてきた。
優しげな童顔に浮かぶ紳士風の微笑み。見覚えのあるその表情に、紗奈は思わず繋いだままの律希の手をぎゅっと強く握る。
「……何?」
日本語で聞いてくる律希に、紗奈は早口の囁き声を返す。
「この人、USTTPの人です。さっき香織さんが話しかけられていました」
紗奈が発した五文字のアルファベットに、律希の表情は一気に固くなる。恐らく、彼も同じことに思い至っているのだ。時間旅行ビジネスをめぐってUSTTPが持つ、九年前の確執と未来への妄執に。
今目の前にいるこの男、マーク・ウィリアムズは、エマによればUSTTPの職員らしい。先程は初対面で香織を口説くというコミカルなワンシーンを演じてみせた彼だったが、今のこの状況に彼の存在があることは、好ましいとは思えない。
『あの……ミセス・シュナイダー』
律希が、警戒心を露わにした固い口調で口を開く。
『僕は、あなたと二人で話がしたいのですが』
律希がそう言うと、アリーシアは答えずにドアを後ろ手に閉める。それから、彼女は気のない口調でこう言うのだった。
『アリーシアって呼んで。彼のことなら、居ないものだと思って話してくれて構わないわ』
『は? いえ、その……』
そんなことできるか、と律希は眉を顰める。そちらが良くても、こちらが良くない。少なくとも、彼がそこに居る理由が分かるまで、律希たちが込み入った話を出来るはずがない。
すると、その会話を聞いていたマークは若干困ったようにアリーシアを向く。
『ほら、だから言ったじゃないですか。私がここに居たら、彼らが話しづらくなるって。今からでも出て行きましょうか?』
『いいえ。これは他の誰よりもあなたたちに必要な情報でしょう。情報の取捨選択は任せるわ。そっちで上手く活用しなさい』
とりつくしまもないアリーシアの態度に、マークは肩をすくめて『了解です』と答えた。彼はまたあの優しげな微笑を浮かべて、少し目線を下にする。律希と紗奈は不信感を消せずに押し黙っているが、アリーシアはそんなことお構いなしに、手近な椅子に腰掛けてこちらを真っ直ぐ見つめて来た。
『さて、そろそろそのUSBを頂ける?』
琥珀色の瞳が、紗奈の心をぐっと掴む。語尾にははっきりとした「?」がついているのに、それは紛れもない命令形だった。魔法にかかったように、紗奈は首を振ることも出来なくなる。しかし、そんな紗奈とは対照的に、律希は鋭い口調で言った。
『その前に確認させて下さい。あなたは稜望先輩の敵ですか? 味方ですか?』
その問いに、アリーシアは数回ゆっくりと瞬きしてから答える。
『味方ではないわ』
しかし、その答えはわずかすらも律希を動かさなかった。彼は視界の端にマークを捉えて、
『それはそうでしょうね』
とあくまで冷淡に呟く。USTTPは、稜望が率いるプロジェクト・ITTPと敵対関係にある。アリーシアと稜望が結託しているのなら、マークがこの場に居るのはおかしい。
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