プロローグ

1/1
28人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ

プロローグ

 彼女に初めて会ったのは、紗季(さき)が就職をしたばかりの時だった。なかなか仕事が覚えられず、辛くて一人の殻に閉じこもってしまっていた。  仕事終わりに入った喫茶店で、食欲がなかった紗季はアイスコーヒーを頼んだ。テーブルに運ばれてからも、ミルクとガムシロップを入れただけで、かき混ぜもせずにグラスを見つめる。  ゆっくりと沈殿していくミルクとガムシロップは、氷が揺れた瞬間、グラス越しに波紋を見せる。グラスの周りには水滴が付き、一粒転げ落ちると、幾つもの水滴を巻き込みながらコースターへと落ちていった。 「お疲れですか?」  ハッとして顔を上げると、カウンターの向こう側にいた黒髪のショートカットの女性が、グラスを布巾で拭きながら、少し困ったような表情でこちらを見ている。  気がつけば店内には紗季以外の客は居らず、昔のポップミュージックと時計の音だけが静かに鳴り響いていた。 「す……すみません! そろそろ出ますね!」 「あっ、そうじゃなくて! もしお嫌じゃなければお話聞きましょうかと思っただけなんです!」  紗季がキョトンとした顔で目を(しばた)かせると、女性はニコリと微笑む。 「他に誰もいないし、私で良かったら話し相手になりますよ。ほら、吐き出すだけでもスッキリするでしょう?」  なんて嬉しい言葉だろう……日々の忙しさに忙殺され、誰かに話すことすら出来ずに溜め込んでしまっていたのだ。 「いいんですか……? 私なんかの話、聞いてくれますか?」 「もちろん」  それから紗季は涙を堪えきれずに辛いことや苦しいこと、やりたいことなどを全てその女性に話した。女性は話を聞きながら、その都度紗季の想いを受け止め、自分では気付かないような閃きを与えてくれた。  コーヒーの中の氷は溶け、グラスについていた水滴もすっかりなくなってしまった。ミルクとガムシロップもグラスの底に落ち着いている。 「ありがとうございました。すごくスッキリしました」 「それなら良かった」 「あの、また来てもいいですか?」 「いいんだけど……私は今日でここを辞めちゃうの」 「そうでしたか……でもお会い出来て良かったです。ありがとうございます」  紗季は立ち上がると、カウンター横のレジまで女性と歩いていく。会計を済ませて扉の外に出てから振り返ると、女性が寂し気な顔で紗季に手を振っていたので、紗季も手を振りながら店を後にした。  あれから三年が経ち、紗季は未だにあの日のことを後悔していた。  どうして彼女に話しかけなかったんだろう。あの表情の意味を聞かなかったんだろうと。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!