亡霊

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つきまとい始めた頃、智子は俊哉に交際を求めてきた。俊哉は、はっきりと拒否したが、その日から智子の俊哉に対するストーキングがどんどんエスカレートしていった。 事務所に無言電話をかけてくる、つきまとう、突然目の前に現れて交際を求めてくる、マンションの扉の前で待ち伏せている、インターホンを俊哉が出るまで鳴らす…それが何日も何日も続き、俊哉は気がおかしくなりそうだった。 ある日、いつものようにマンションの前で待ち伏せていた智子に気づいた俊哉は、これ以上つきまとったら警察に連絡する、と厳しい口調で告げた。智子は、顔を引きつらせながら逃げるように立ち去った。 その数日後の雨の日だった。朝から降り続いていた雨は、夜にはより一層強くなっていた。 ゆきと一緒に事務所から出て、緑の扉を開けると、雨に打たれてずぶ濡れの智子が通りに立っていた。 咄嗟に、俊哉は後から出てきたゆきを扉の向こうに押しやった。智子の手に包丁が握られているのに気づいたからだった。 「私、あなたのことを愛してるの」 智子は目を見開いて言った。 「どうしてわかってくれないの?」 「申し訳ないが、俺は君を愛してない」 「どうして?」 「理由がいるのか?好きではない、ただそれだけのことだろ」 「きっと好きになるわ」 「ならない。俺の好きな人は別にいる」 「誰?」 「君の知らない人だよ」 智子は包丁を俊哉に向けて構えた。その時、包丁から赤い雫が少し垂れているのが見えた。 「誰よ」 俊哉は何も答えなかった。 「私はこんなに愛してるのに?私が結婚してるから、遠慮してるんでしょ?大丈夫、あんな馬鹿な旦那はもういないから」 「どういう意味だ?」 「もうこの世にはいないから、安心して」 「まさか…」 「だから、私と一緒になってよ」 俊哉は首を横に振った。智子は見開いた両目から涙をながし、奇声を上げた。そして包丁を構えたまま俊哉に向かって突進した。 俊哉は冷静に、持っていた傘で智子の肩を突いた。剣道の経験がある俊哉の突きは重く鋭く、智子は後ろに弾かれるように倒れ込んだ。 パトカーのサイレンの音が遠くから聞こえてきていた。ゆきが通報したのだ。 「誰も、私を愛してくれない。私はこんなに愛してるのに」 智子は突かれた肩を反対の手で押さえながら立ち上がった。そして再び奇声を上げると、俊哉に襲いかかった。振り下ろされる包丁から何度か身を避けた後、俊哉は傘で智子の腕をはたき、包丁を地面に落とした。そしてすぐに包丁を遠くに蹴り飛ばした。 「もうやめろ」 と、俊哉は言った。パトカーが近くに止まり、警察官が路地に入ってくるのが見えた。 「殺したのか、ご主人を」 俊哉の問いに智子は答えなかった。ただ泣きじゃくりながら地面を叩いていた。俊哉を殺せなかったことを、悔しがっているようだった。
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