思い出なんかは無いけれど

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 二人はしばらく、警察の同僚や上司たちの話題で盛り上がった。一時間も過ぎようとしたころ、安野が腰を上げようとした。 「じゃあ村瀬、おれ、帰るわ」 「あ……、待ってくれ。ちょうど今……」  車が停まる音がしていたことに、村瀬は気がついていた。さらに玄関でも音がして、そろそろと遠慮がちな足音。障子が開いた。坂木倫太郎が顔を覗かせている。 「安野さん、初めまして。村瀬くんに仕事を手伝ってもらっている、作家の坂木倫太郎と言います。今日は、ようこそお越しくださいました」  安野はお辞儀をして、にこやかに挨拶を返した。 「坂木さん、はじめまして。村瀬の同僚だった安野裕樹と申します。お仕事は、もう済まれたんですか?」 「はい。ちょっと打ち合わせに行ってたんですが、もう終わりました」 「お疲れ様です」 「ありがとうございます。よかったら、うちで夕食でもいかがですか?」 「お気遣いありがとうございます。でも、今日は家族に早く帰るって言ってあるんです。夜は妻の実家で食事の予定で」 「いいですね、家族水入らず」  にこにこと笑う坂木に、飾らない笑顔の安野。二人の邂逅にほっとして、心があたたまっている村瀬がいた。  それから、思い出した村瀬は安野に言う。 「安野、ちょっと待ってて」  階段の脇に隠した袋を手に、村瀬はまた座敷に戻った。目を瞬いている安野に、紫色の袋と白いリボンでラッピングされたプレゼントを手渡す。 「これ、娘さんに。確か、三月が誕生日だったよな?」 「え!? いいのか? 気を遣わなくていいんだぞ。出産祝いだってくれたのに」 「坂木先生と選んだ。黒猫のぬいぐるみ。フランス製だって」 「おしゃれな気がする……。ありがとう、村瀬。それに、坂木さんも。いや、坂木先生。村瀬のこと、よろしくお願いします」  プレゼントの袋を手に頭を下げた安野に、坂木はぽつりと一言、 「……あなたはおれのライバルですか?」  すると安野は顔を上げ、笑った。 「いえ、おれは坂木先生の味方です。おれは、村瀬の兄ですから。五日、先に生まれたんです」  もう一度丁寧に礼を言って、安野は帰っていった。 ○  村瀬は早速今度から、安野が持ってきてくれた原付の鍵を使うことにした。もちろん、キーホルダーはつけたままだ。 「あ、『蒸気船ウィリー』。可愛い」  飲み残しのお茶をキッチンに運びながら、坂木がキーホルダーを見て微笑む。村瀬も微笑んだ。 「前に安野がくれたんです。『天使の側近』、読んでくれて、よかったって言ってましたよ。そうそう、倫太郎さん、桜餅があるんですが食べますか?」  食べる! とうれしそうに答えておいて、坂木は急に振り返った。 「安野さんと同期なんだろ? プライベートでも仲がよかった?」 「いえ、お互いプライベートにはほとんど干渉してなかったですね。……でも実は、安野の家族とは不思議な縁があって。安野の奥さん――三浦(みうら)さんは元々婦警だったんですが、おれを好いてくれてたんです。で、告白してくれたんですが、振ってしまって。で、三浦さんが傷心してるところにつけこんで、安野が彼女と付き合い始めたんです」 「え!? い、意外とドロドロ?」 「でも、安野と奥さんはお似合いですよ。安野、ちゃらんぽらんとしてるんですが、奥さんはしっかりしてて」 「おれとせいちゃんみたい」  ちら、と村瀬から一瞥を寄越され、坂木は慌てて目を逸らした。キッチンのシンクの前に立ったまま、桜餅を頬張る。村瀬がマグカップに緑茶を注いで、坂木に手渡した。 「安野は奥さんにベタ惚れだし、二人とも娘さんを大事にしてる。家族仲はいいし、おれはうらやましいですね」 「そうかぁ。おれたちも負けてられないな、せいちゃん!」  後ろから坂木にハグされ、村瀬は笑う。 「そうですね、子作りしちゃいます?」 「だ、大胆だ……!」 「倫太郎さんって、スケベなのかうぶなのか、よくわからないですね」  二人で笑いながら湯呑を片付け、ダイニングに戻った。村瀬はソファ前のテーブルの上に、原付の鍵を置いた。  二人で並んでソファに座って、坂木がテレビをつける。  明日の天気予報が流れる中、村瀬がぽつりと言った。 「今日、わかりました。自分には意外と味方がいるなって。気にかけてくれてる人は、いるんだなって」  坂木は隣を向くと、村瀬の手をそっと握った。 「うん。そうだよ、せいちゃん」 「全部自分一人でしょいこまなくても、いいのかもしれません」 「うん、うん」  そうだよ、せいちゃん、と坂木が泣きそうに笑う。村瀬は恋人の首筋に、頭をもたせかけた。  理由はない。だが、明日も生きていけそうだと、村瀬は思った。
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